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| 4年 |
このブログも書き始めて4年がたつ。初めのころの記事を読むと本当につまらない。自分に腹が立ってくる。ブログは私の一部分であり、それも結構傷つきやすい一部分だ。果物で言ったら皮ではなく果肉の部分だ。自分のどういう部分をブログという形式に押し込めるのかが変わったという面もあると同時に、自分自身が変わったという面もある。だから、ブログに押し込める自分の部分を間違っていたことに対する腹立ちと、自分が未熟だったことに対する腹立ちと、二重の腹立ちに襲われるのだ。最近は何かの感銘やひらめきがあったときくらいしか記事を書かない。それでも、自分では楽しがっていても読んでいる人にはつまらないのかなあと思ったりする。
ブログを書き始めたときも浪人だった。law school時代をはさんで、また浪人に戻った。だが、以前の浪人時代と今の浪人時代では、年齢が違う。この二つの浪人時代のはざまに非常に多くのことに気づいてしまった。何よりも、自分は気付き続けなければいけないということに気づいてしまった。気づき続け作り続け知り続けることは、自分にとっては生理的に疑いえない価値だということに気づいてしまった。ブログを書くときに消費する酸素分子の量でも考えながらとりあえずは語るのをやめよう。
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| 自分の定義 |
疲れて布団にくるまっていたら、「俺はいったい何者なんだろう?」という疑問がわいてきた。低迷する感情を低迷させたまま、それでも何かの原石を見つけ出したような気がした。原石は少しずつ自動的に磨かれていったが、出来上がったものが宝石かどうかを鑑識する目が私にはなかった。
<私>は固有名だから、サールにならって記述の束で定義すればいい。「私は19XX年に生まれた。」とか「私は19XX年に成人になった」とか「私は男である」とか。自分の過去や現在を相当数集めてくれば、それが私の定義になる。
だが、私が感じたのは、そのようにして私が定義されることに対する拒絶感である。確かにネガティブな出来事で自分を定義したくないのはわかる。だが、「私は大学に合格した」とかポジティブな出来事でも自分のことを定義したくはないのである。
私は、自分については過去も未来も空白であってほしい。現在は残るといわれるかもしれないが、現在ですら空白であってほしい。私が要求する私の定義は、「私とは無である」、どうやらこれのようだ。
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| 雑感 |
現代詩の価値を信じていて、現代詩をもっと広めなければならないと奮闘している方々を見かけることがある。そのことにやりがいを見いだせているのならば、それはそれで結構なことだとは思う。そういう人たちのやりがいを破壊する権利は私にはない。現代詩の普及にも価値がある。ただ、それは疑いうる価値にすぎない。
芸術などに関心のない人と話をすると、「芸術なんてなくても生きていけるよね」と言われる。そういう人は、釣りとか、ほかに趣味を持っているのだ。現代詩は、数ある選択肢の一つにすぎない。現代詩には、現代詩の素質がない人にまで無理に押し付けるだけの価値があるのだろうか。
私は、現代詩の根本にある態度の本質というものは、物事を感受したり表現したりすることに自覚的・創造的であることを通じて、生きていく上で自覚的・創造的になることにあると一応は思っている。いろんなことに主体的に気付いていき、主体的に新しいものを作り上げていく、それが現代詩の根本にある態度だと思っている。
その態度からすると、人生においていろんなことに気付いていかなければならないのだから、現代詩の価値の相対性にも気付かなければならなくなる。つまり、現代詩を知ることによって同時に現代詩を疑わなければならなくなる。
誰でも自分の立場は正当化したいし、自分の行為は価値のあるものだと考えたい。だがそれを他人に押し付ける権利はない。他人には他人の信じる価値がある。その価値によって他人が幸せでいればそれでいいのだ。ただ、その他人が趣味がなくて困っているとか、ストレスの発散の仕方が分からないとかいう場合は、さりげなく詩集なり雑誌なりの一冊でも差し出すとよいかもしれない。その他人に素質があれば価値に気づく。
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| 詩の危険 |
だいぶ前から思っていたのだが、詩は言葉の信用性を失墜させていないだろうか。ここで言う「信用性」とは、言葉が実体験に基づくもので真に聴くに値するものであるということだ。
詩はレトリックによって珍奇な表現を次々と生み出していく。だが、その珍奇な表現は十分実感されたものであるとは限らない。詩としての面白さを生みだすために、たいして実感の伴わない、信用性のない言葉が次々と生み出されてはいないか。
それは確かに詩としてはある意味面白いかもしれない。だが、本当に心の底から実感した複雑な体験を表現してみたら、それが珍奇な表現になってしまった場合のことを考えよう。その場合、その実感の伴ったはずの言葉が言葉遊びとして扱われ、読み手はそれを信用せず、詩人は本当に伝えたいことを伝えられなくなってしまう。
つまり、大して実感のない珍奇な言葉が大量生産されてしまった後で、いくら実感の伴った複雑な表現をしたところで、それが真に実感に基づくもので聴くに値するものだとは、読み手に思われなくなってしまうのである。所詮言葉遊びだと思われ、その底にある真の実感が伝わらなくなってしまう。
これは詩の領域だけの問題ではない。あらゆる文脈において、何か詩的な表現がなされると、もはやそれは信用に値しないものとして扱われかねないのだ。詩は言葉の信用性を失墜させてしまったのではないだろうか。
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| 描写 |
友人と美術館にやってきて、展示を見終わったが、バスが来るまでの間、付属のレストランで一時間以上時間をつぶさなければならなかった。バスの本数が少ないのである。食事の間、また食事が終ってからしばらくの間で、自然に流れ出てくる会話は尽きてしまって、会話の種を探さなければならなくなった。そこで私は会話の種を閃いて退屈を回避することがかろうじてできた。友人はアレルギーなどで薬を多く飲まなければならないことを思い出したのだ。 「君と薬とではどっちが主体なの? つまり、薬が君のためにあるのか、君が薬のために生きているのか。」 「それは薬だねえ。すべて薬を中心に動いてる気がするよ。なんか食欲に対応するものとして「薬欲」っていうのがある気がするよ。」 「「薬欲」はおもしろいなあ。メモしておこう(笑)。薬を飲むことは自分に対する義務だよね。「自殺をしてはいけない」のと同じように、薬を飲まなければいけない。」 「そっかあ、薬を飲まないのは自殺とおんなじなんだね。」 習慣は意志を欲望に変貌させる。薬を飲むことを続けていると、それはもともと義務であったのに、いつのまにか権利に変わってしまう。薬を飲むという行為を続けていると、その行為を正当化するために、薬を飲む欲望が製造されてしまうのだ。
久々に友人と会ったのだが、目的の店がまだ開いていず、その入り口で立ち話をしていた。 「仕事のほうはどう?」 「楽しいね。肉体労働をすることで自分の罪が浄化されていく気がするよ。」 「罪って?」 「働かなかったことの罪だね。」 「じゃあ懲役みたいなもんだね。」 「強制労働ではないけどね。」 「俺も早く自分の罪を浄化したいな。」 「でも君は勉強してるでしょ?」 「いや、そうは言ってもねえ・・・」 働くこと以外に自分の罪を償う手段はあるだろうか。
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| nikki |
最近思うのは、他人が一生懸命生きているのをただ温かく見守っているだけで、自分も少しだけ幸せになれるということだ。自分がいくら苦しい思いをしても、他人の幸福を温かく見守っていればそれで少しは幸せになれる。自分の立場が絶対だなんて保証はどこにもない。自分の価値観を押し付けず、ありのままの他人を肯定し、それを見守っている。それだけで自分も少しだけ幸せになれる。
もちろん、他人を肯定ばかりしていればいいというものではなく、他人がその目指している目標に達することができるように適宜に批判することは必要だろう。だがそれは、自分本位ではなく、あくまで他人の設定した目標に即して批判をすればいいのだ。自分の目指している価値が絶対だなんて保証はどこにもない。他人の目指している価値のほうが重要かもしれない。
俺も丸くなったなあ。
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しかし、人生は人間が生きるには難しすぎるね。そのことに気づいてくよくよ悩みながら生きていくのが文学者なんだろうな。「健康な文学者」なんて語義矛盾だ。「自殺をしてやっと一人前」なのが文学者なのかもしれない。
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| 締切 |
やばい、締切だ。だが一行すら書けていない。まだ資料を読んでいる段階だ。今回読むべき資料がたくさんあって、しかも途中から結局ラッセルを読むことに切り替えたので、400ページのうち100ページしか読めていない。この400ページはライトノベルや漫画の400ページとは違う。中身のぎっちり詰まった400ページなのだ。ラッセルは難しいことを明快かつ創造的に語る天才だから、読みやすいことは読みやすいのだが、考えながら読まないと真の理解は得られない。
軽い批評でも書いてその場をごまかすという手もある。それなら数日あれば十分だ。だが、せっかく言語哲学の威力を示す機会だというのにそれを先延ばしにするのも考え物だ。ごまかす気になればいくらでもごまかせる。まあほかの同人の動向を見ながら、みんな提出したら批評を書くことに切り替えて、みんな提出するまではストイックに資料を読み込むことにしよう。
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| ヴィットリオ・デ・シーカ「自転車泥棒」 |
映画とは、鑑賞者とカメラとの共犯関係によって成り立つ禁忌違反であることを示す映画。
主人公は、自転車を盗まれるが、その自転車は彼の仕事になくてはならないものだった。彼の生活は自転車の存在にかかっていた。自転車がなければ彼はせっかく得た職を失う。そこで主人公は自転車を探し回るが結局見つからない。そこで意を決して自転車を盗もうとするが失敗するのだ。
この映画の感銘のほとんどは、主人公が自転車を盗むシーンから与えられる。その感銘は、主人公の思い切った行動を起こすことの緊張、また犯罪者へと身を落とすことの自尊心喪失と安楽、そして何よりも、我々の目撃してはならないものを目撃してしまったことの後ろめたさと好奇心、からくる。
主人公にとって、犯罪の現場は最も見られたくないものである。主人公は犯罪の現場を見られない権利がある。高度なプライヴァシーがそこにはある。そのプライヴァシーを、カメラは冷然と写していて、我々もまたそれを見てしまう。禁忌を犯しているのは主人公ではない。我々なのだ。我々が、カメラと共犯関係を結ぶことで、主人公のプライヴァシーの権利を堂々と侵害しているのである。
「見る」という行為自体が、そもそも世界の禁忌を犯している。世界は見られたくないというプライヴァシーの権利を持っている。そのことに気付きながらも、その禁忌を犯すことに耐えながら、我々は生き続けそして見続けていかなければならない。
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| 手続的美 |
法哲学の領域では、手続的正義と実体的正義が区別されている。手続的正義とは、内容がどうあれ公認された手続きに基づいてなされた決定は正義だとみなす考えである。どんな法律でも国会が制定すればそれは正しい。それに対して実体的正義とは、その判断が正義の原理に照らして内容的に妥当かを判断する立場である。いくら国会が作った法律でも悪法は悪法である。
さて、世の中には三大価値があって、それは古来から真・善・美だとされている。手続的正義の問題は善の次元の問題だ。だが、同じ問題が美の次元でも生じうる。つまり、実体的美とは観る目があるものに美しいという実体験を与えるものだ。それに対して手続的美とは、出来上がった作品がどうであれ、公認された方法や様式に従っていればそれは美とみなすという立場である。
手続的正義は実体的正義を推定させる。国会で制定されればたいがい正しい。だが、現行制度が手続的正義で満足せざるを得ないのは、問題が次々現れてきて、限られた時間で意思決定をしなければならないからだ。そんな状況で実体的正義を追求していては手遅れになってしまう。
それに対して、芸術の世界では手続的美で満足する必要はない。実体的美を追求する時間は比較的長く与えられている。確かに手続的美は実体的美を推定させるが、これはあくまで推定であり、手続的美と実体的美はイコールではない。
だから、芸術の世界で、「これは価値がない。なぜならこれこれの方法や様式をとっていないからだ」というのは余り好ましいこととは思えない。手続的な問題によって実体的な美について語るのは不適切である。芸術家は別に次から次へと問題を解決しなければならないわけではない。実体的な美を追求する余裕はあるのだ。実体的美を語るのに手続的美を用いるのは、その手続が実体的美をかなりの程度強く推定させるものでなければならない。そうでなければ手続で実体を語ってはならないと思われる。
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| 描写 |
母が、今日は天気がいいから布団を干せ、と言う。だが私は面倒で干す気が起きない。まず寝室から布団を引きずり出すのが面倒だし、それを取り込むのも面倒だ。昼寝をするとき熱すぎて昼寝ができなくなる。私は言葉を濁すことで否定の意思を黙示に伝えたつもりだが、しばらくするとまた母が布団を干せという。「ほんとにぽかぽかになるよ」とか「布団の下にカビが生える」などと理由をつける。私は何も返事をしない。
そしてしばらくすると、また母が布団を干せと言う。ここまで来ると、私は滑稽で仕方なくなってしまった。母の布団を干すことの効用についての純粋で執拗なこだわりが、私にはただただ滑稽で仕方がなかった。今度は母が、「時間があったらパンジーの苗をこっちに持ってきておいて」と言ってきたところで、私は答えるかわりに笑いが止まらなくなった。母も何となくそれにつられて笑ったが、私の笑いの意味は分かっていないようだった。私は腹筋の緊張にこらえながら、ただ笑うだけで何も話せなくなってしまった。
腕時計の電池が切れた。秒針が一秒進んでは一秒戻るということを規則的に繰り返している。その動きが気持ち悪かったが、その理由は、その動きが死んでいく昆虫の最後のけいれんのように見えることからくるのがわかった。テーブルの上の脇の方に、死んでいく昆虫が一匹いる。時計という無機物の外見をしているだけに、そのけいれんも控えめで執拗だ。もう10日くらいずっとけいれんをしている。早く死んでくれればこっちも楽なのに、いつまでも死ぬ苦しみを見せつけられるのである。
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