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| 他人の詩を読むこと |
某広場で、過去の詩人の作品を読まなくてもいい詩は書けるし、読んでもいい詩はかけてないじゃないか、という半ばヒステリックな主張が何度か繰り返されている。だが、まず彼らがどういう詩を優れた詩だと考えているのか分からない。詩をたくさん読んでいる人の作品が自分の好みじゃないからといって、ホラ見ろ、過去の詩を読んでも意味ないじゃないか、というのは説得的ではない。そのような主張をするには、まず、自分が詩の良し悪しを客観的に正しく認識できなければいけないはずである。
また、過去の詩をたくさん読むことの目的は、優れた詩を書くことのみではないことに注意すべきだ。過去の詩をたくさん読むことの目的は、感受性を磨いたり、過去の人がそれぞれの時代にどんなことを表現しようとしていたのかを知ったり、教養を身につけたり、単純に楽しんだり、批評の題材にしたり、いろいろあるわけだ。過去の詩を読んでもよい詩がかけないからといって、その人が過去の詩を読むことの目的を達成できていないわけではない。例えば純粋な批評家は、実作のためではなく、より良い批評を書くために過去の詩を読むだろう。
ちなみに私見を言うと、自分の詩の可能性を広げるには、他人の詩を漫然と読むだけではたりないと思う。それをある程度ていねいに批評する必要がある。ある程度集中して読み込まないと、作品のあり方が充分に見えてこないのである。
私はこれまで何人かの詩人を比較的まともに批評してきたが、それによって得るものは大きかった。例えば今唯ケンタロウさんの詩を批評することで、詩において運動を顕現させることで「動因としての詩人」という見方ができるようになった。また、運動的な詩を書く技術も知ることができた。島野律子さんの詩を批評することで、生活の湿度、物質の透明性、世界の複雑な関係構造を詩の中に反映させることの独特の効果というものを学んだ。
自分にはいまだ備わっていない、「詩人の特定のあり方や世界の特定のあり方を詩に反映させる技術」というものを、他の詩人を批評することで得ることができると思う。これは他の詩人の作品を読むことの目的のひとつだと思う。だが、この目的が達成されたからといって、特定の人の好みに合う詩を書くことにはならない。特定の人の好みに合う詩を書けるようにならなくても、他の詩人の作品を読むことで、他の様々な目的を達成することができるはずである。
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| 自己批評 |
Sさんとこの間話したとき、君は客観的な傍観者としての散文ばかり書いているが、実作者としての立場はどうなんだ、ということを訊かれた。書き方や、選ぶモチーフが自分の中の何に基づいているのか、そういう問題も提起された。
そう言えば私は、自分の実作者としてのあり方・その深層について深く考えることがなかった。だが、他の誰を評するよりも、自分を評することの方が、内面的な情報量の点では有利であり、他の詩人を批評するにはまず自分を批評することから始めなければならないような気もする。自己批評というのは実はとても面白いのではないか。
自分の作品をなるべく客観的に見ることによって、自分では気づいていなかった自分の作品のありようが見えてくるような気がする。私は自分の作品について興味がなさ過ぎる気がする。自分の作品を見つめなおすことで、その限界を知り、その限界を超えていく契機にもなるかもしれない。たぶん私の作品は恐ろしく偏っていると思われる。
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| 日記 |
日本人の約9割が自分は幸せだと思っていて、残りの1割が不幸だと思っているらしい。まああれだね、そういう幸せな連中が軽々しく他人を傷つけたりするんだろうね。調子に乗って。もちろん傷つけたりしない人もいっぱいいるわけだけれど。善良で幸福な一般大衆ほど怖いものはありませんよ。こんなことを言うと嫌われそうだけど。私はそういう方々の隠された悪意の被害に遭ったことが何度かある。自分が調子のいいときほど、謙虚に、他人には優しくしなければならない。不幸で痛みを知っている人ほど、謙虚で他人を大事にすると思う。ちなみに私は自分が幸せだとも不幸せだとも思っていないが、いつでも困っている人の味方でいたいなあ。弁護士になるかどうかは分からないけど、弁護士に向いてるのかもしれない。でも気付かないところで私も人を傷つけているのかもしれない。調子に乗らないようにしなければ。
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| 人間的な観念のドラマ |
美術史を読んでいて楽しめるのは、それがドラマだからだと思う。ドラマといっても、別に恋愛があったり口論があったり犯罪があったりするわけではない。そういう人間的過ぎるドラマのことを言っているのではない。
クールベがオルナンの住民をモニュメンタルに描いたとき、そこには主題の転換という観念的なドラマがあった。それは、クールベ内部での自己の主題の定着というドラマだけではなく、それまでの芸術家との関係においても主題の選び方についての対立というドラマがあった。そして超主観的な美術史の流れの中でも、主題の扱い方についての転換というドラマがあった。
このドラマは観念的なものであるが、かといって単なる論理的な議論のダイナミクスではない。それは論理では説明できないすぐれて人間的な、つまりクールベの偶然的な個性によって有機的に導き出されたダイナミクスであり、ドラマである。
美術史が楽しいのは、それが人間的な観念のドラマだからだ、とひとまずは言っておきたい。
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| 3周年 |
明日でこのブログは3周年を迎える。このブログを始めたころは、まだ公務員試験にも大学院にも受かっていず、日々全然興味の持てない法律の勉強をしていた。その頃は現代詩を始めてそれほど経っていないころだが、現代詩手帖にけっこう順調に作品が入選していた。美術や音楽の楽しさがそれほど分かっていないころだった。詩についての洞察もだいぶ浅かったし、知識もなかった。ブログ記事も、私の評価基準からすると、つまらないものが多かった。
それから公務員試験合格、大学院合格、大学院入学、進級を経て今に至る。何よりも変わったのは、大学院受験を経ることにより法律を学ぶことの意義を知り、大学院で学ぶことにより法律学の面白さを知ったことである。その間、一時休止したものの、詩の投稿を続け、自分の詩のレパートリーはだいぶ増えた。いろんな詩人を知った。批評を読んだ、書いた。多くの方のご協力により、同人誌を立ち上げることもできた。大学院に入ってからは、音楽や美術なしでは生きられないほどになっていった。ブログ記事も、少しずつ、中身のあることが書けるようになっていったと思う。
読んでくださっている方々にはひたすら感謝です。今後ともよろしくお願いします。
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| nikki |
何だろう、ここのところ創造性に欠ける気がする。頭の働きが一定のレベルを超えていかない。供給されるエネルギーがどこかで頭打ちになって、いつもの量まで充分に供給されない。数日前に一度、喘息気味になって夜中の一時半に目を覚ましたのだが、それから毎日一時半ごろに一度目が覚めてしまうので、きっとそれが原因だろう。やばいなあ、不眠症になったらどうしよう。睡眠薬って飲んだことがないのだが、飲むことになるのだろうか。季節の変わり目でやたらと洟やくしゃみが出る。そっちの方が原因かもしれない。
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| ジャン・ルノワール「大いなる幻影」 |
ストーリーを書くということは、登場人物にそれぞれの行為をする機会を与えるということである。
本作では、ルノワールは、マレシャル中尉には本心をさらけ出す機会を与えているが、貴族のポアルディウ大尉には本心をさらけ出す機会を与えていない。それゆえ、観る者としてはマレシャルには親近感を感じるが、ポアルディウには隔たりを感じる。
一方で、ポアルディウには自分を犠牲にして仲間の脱走を助ける機会を与えているが、マレシャルには自己犠牲の機会は与えていない。それゆえ、観る者のポアルディウに対する評価は高まる。
「登場人物」という概念は不思議な概念だが、仮に「登場人物」が自分が観客に強い印象を与えることを望んでいると考えるのならば、脚本家はその登場人物に活躍する機会を与えることで、その希望をかなえてやることができる。「登場人物」が全体の調和を望んでいるのならば、脚本家はその登場人物に適切な機会を与えることでその希望をかなえてやることができる。
(マレシャル、脱走)みたいに、(登場人物、機会)の組み合わせの連鎖がストーリーであろう。そして、(登場人物、機会)の組み合わせは観る者に対してそれぞれの効果を持ち、それぞれの組み合わせは互いに影響しあっている。
なんかまとまりのない文章になってしまった。
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| 空気 |
待っている時間、机にうつぶせになっていたら、顔や腕にエアコンの風が触れてきた。この空気の動きというものは、常に一様な向きと強さで動くのではなく、強くなったり弱くなったりする。見えないところで複雑な動きがあるのだなあと思う。顔に対しては、不規則なリズムで空気の塊がぶつかってくる。
空気が生き物のように触れてきた、などという記述は三文小説にありそうなものだが、実際、何か見えない生き物に興味を持たれて、その生き物に不規則なリズムでなでられているようで、気味が悪い。空気は驚くほど近くにいる。肌に触れてくるのだから。広い部屋でも狭く感じてしまう。
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| オットー・プレミンジャー「黄金の腕」 |
とにかく葛藤の映画。二項対立になじみやすい。
・ザッシュ(妻)⇔モーリー(愛人) ・ドラマー(堅気の職)になりたいという欲求⇔賭博のディーラーになれという圧力 ・ザッシュはディーラーになることを希望⇔モーリーはドラマーになることを援助 ・麻薬の誘惑⇔更生したいという希望 ・麻薬の売人⇔療養所の医師、モーリー
このような二項対立の間をフランキーは行ったり来たりする。最終的にこれらの二項対立のうち片方が消滅することで解決が生まれる。ザッシュは死に、フランキーは中毒から立ち直り、ディーラーを辞める。
二項対立で葛藤を生ぜしめ、その片方を消滅させることで物語の解決を導くというのはストーリーの組み立て方のテクニックのひとつであろう。そこに細部を肉付けすればいい。
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| 墓参り |
彼岸なので墓参りにいってきた。風が強くて、線香に火がつく前にライターで火傷しそうだったので火をつけるのをあきらめる。
線香を墓前に供えて墓石を見たら、そこには自分と自分の背後の風景が暗く映っていた。墓石に映った世界は死後の世界のように思えた。墓石に映っている私は、死後の世界からこちらを見ていた。墓石に映った世界には死んだ祖父や祖母もいるようで、墓石に映った私が呼べば生前の立ち居振る舞いで出てきそうな感じだった。
死後の世界にも風が吹いていた。こちらの世界に風が吹いているのだから当たり前である。だが、死後の世界にはなぜか風がふさわしかった。そして、死後の世界にいる私はとてもはかなげで悲しそうだった。
私は墓石に映る世界を見ながら、遠い昔の記憶を見るような感覚に襲われた。死後の世界には記憶の湧き出る泉があるかのようだった。私もいつかそこに回帰するのだと思われた。
私は死後の世界に別れを告げて家路につく。だが、私がいなくなっても、墓石にはいつまでも、死後の世界の私がこちらを悲しげに見続けていて、その姿はいつまでも、いつまでも、記憶の流れが尽き果てるまで続いていくような気がした。そして、墓石に映る世界には、いつまでも強い風が吹き続けているように思えた。
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