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sk

Author:sk
28歳。男。たまに詩を書いたりもする(筆名「広田修」)。哲学が好き。
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Albatros BLOG
日々の雑記。現代詩の話や哲学の話。文学や音楽、美術、芸術一般の話。ただただ書き捨てていくだけ。
人生と学問
 友人と話していて思ったのは、友人は人生と真っ向から格闘していて、それに対して私は、人生以外の学問や芸術と格闘していて人生との対峙がおろそかになっているということだ。

 友人は、幸福の青い鳥を探しているが見つからないと言う。また、現実が理想どおりにいかないと嘆く。自分のことを肯定できないと嘆く。自分を高みに連れて行くにはどうしてよいか分からないと嘆く。

 それに対して、私はそのような悩みについて真剣に考えてこなかった。自分を究極的に満足させるものなど存在しないとは思っている。だがそのことについて考えが徹底しているわけでもない。現実と理想の問題についても同様だ。私は学問や芸術の創造によって自己を肯定できている。その点において、人生としか対峙していない友人と異なる。また、自分を高みに連れて行くにはとにかく本を読んで考えるしかないと思っている。手段が分かっているのだ。

 人生と対峙するか学問と対峙するか。それによって、共通する問題もあるだろうし、微妙に解決策が違ってくる問題もある。だが、学問偏重で人生の諸問題をおろそかにしてきた私には非がある。人生と向き合うためにも文学を読まなければ。
描写
 「ちょっと手伝ってもらってもいい?」と母に言われ、勉強を休んでいた私は、自分の中で空回りするものが何かとかみ合うものを見つけたように、一層その空回りを加速させた。母は椅子とコンテナ二つ、一つはからでからのビニール袋がひとつ入ったもの、もうひとつはビニール片と金具がかみ合ったもので満たされたもの、を私の前に持ってきて、どこでやるのがいいかきいた。だが、尋ねた時点で既に母の中ではやるべき場所は決まっていた。母は、小さな蔵の日陰にそれらを持っていき、私は塗料もなく白く荒んでいる木のいすに腰掛けて、何をするのかを尋ねた。ビニール片と金具を分離して、ビニール片をビニール袋の中に、金具をコンテナのビニール袋で占められていない部分に入れる作業を教えられた。そこに命令はなかった。やって欲しいことに私が応えるという、緩やかな意思の合致だけがあった。

 私が作業をしていると、母が、「今日の朝モンシロチョウを見かけたんだ。でもモンシロチョウにしては大きかったからキアゲハかも知れない。妖精みたいに綺麗だったよ」と話しかけてきた。少女のような感受性と快活さが、母の中には今も息づいていて、私はいつもその純粋さに心が洗われるのだった。父が私の前で立ち止まり、私の仕事を無言で見ていた。私は「どうかしたの?」ときいたが、そのまま無言で東の畑の方に向かっていった。しばらくすると父は戻ってきて、「お前もあれだな、義勝みたいだな。」と言った。「え?」ときき返すと、「時間が無限にあると思ってる。30分で仕上げようと思ったらそんなもんじゃない」と言った。私は特に傷つくプライドを持ち合わせていなかった。私は農家のプロではないからだ。それに、特に仕事のペースを早めようとは思わなかった。

 黙々と作業を続けた。すると、外在的な知識から解放された精神は、その余力であらぬ方向へと向かっていく。私は、家族とともにあることの幸せをなぜか深く感じていた。家族というものは人間ではなく、一個の瀰漫する雰囲気であるように思われ、その瀰漫する雰囲気を呼吸しそれに底上げされていることに幸せを感じた。そして、家族のための仕事ができていることに喜びを感じた。
反省
 大きなトラックが砂利を踏んでくる音が聞こえた。私は通販で頼んだ本が来たと思い、玄関まで行った。荷物は外にいた母が受け取った。玄関のドアは閉まっていたが、ドア越しに私は母のため息を聞いてしまった。そして、ドアを開けると、母は、「よく届くねえ」といって荷物を私に渡した。

 私は何ともないふりで荷物を受け取った。だが、母のため息は私にはひどく重く感じられ、自分の顔色が急激に青ざめていくのを感じた。実家はそれほど収入が多くなく、妹の学費を払うので精一杯であり、私が本を多く買うようなぜいたくは、親から見れば許容しがたいものなのである。

 私は内臓が底に落ちていくような感覚を覚え、同時に何か葛藤のようなものにこらえるため歯を噛まねばならなかった。兄は大学を出てすぐに就職し、妹も大学を出ればすぐ就職するだろう。いつまでも夢を見続けて親のすねをかじっているのは私だけなのだ。

 私の心はかき乱され、それは私を責めるというひとつの方向を向くことで落ち着いた。私は身の程を知らねばならない。いい歳をして稼ぎがまるでないのだ。読んでいない本は山ほどあるではないか。まだ充分聴き込んでいないCDも多くあるではないか。知識欲だってひとつの低劣な欲望に過ぎないのだ。それを何か高貴なものだと思い違いしていないか。

 もっと親の苦労も考えねばならぬ。今ある本をとにかく読んでしまおう。聴き込んでないCDをもっと聴き込もう。家族のためにも早く試験に受かって先に進まなければ。
nikki
 今回の投稿欄には、自分は余り向いてない気がするなあ。でも、今自分は、生活や人生に根ざした詩というものが書きたい心境なのだ。そのような詩を投稿したところ、井坂さんに、佳作以外で印象に残ったものとして挙げられていた。要するに佳作以下なのだが、それでも自分が今まで書いてこなかった新しいスタイルで書いたものが評価されたのは嬉しい。別に入選しなくてもいいから、とにかく生活や素直な感受性を大事にした詩を書いていこうと思う。今期はそのような時期にしたい。
日記
 今日は充実した日だった。人と対話することの大切さ。

 詩を区別する指標として、映像を思い描けるかどうか、という区別があると思う。描写的な詩は映像を思い描ける。一方で、「概念の穴を騒ぐ」みたいな観念的で隠喩的な詩は映像を思い描けない。

 ゾラの恐るべき写実力。見習わなければ。

 エキソンパイというローカルな菓子があるのだが、これはくるみ餡をパイ生地で包んだもので、とてもおいしい。

 昨日は友人と悲しみを共有した。俺は君のために泣いてあげることしかできない。

 肉体労働を詩のテーマにしたい。
nikki
 瀬尾育生の「戦争詩論」を読み始める。打ちのめされた。正直、私は現代詩の世界というものを余り高く評価していなかったのだが、瀬尾育生のような人間がいる限り、現代詩には未来があると思われる。これだけの頭脳をもつ人間が現代詩の世界にいたとは。とにかく瀬尾育生の本はあらかた読んでしまおうと思う。前に一度会ったときも思ったのだが、彼ならば尊敬できると思う。

 ただし、読んでいて、やはり彼の文学者としての限界のようなものを感じてしまう。散見される不明瞭な物言い、連想による半ば強引な寓意関係の設定。それでも私は興奮しながら彼の論を読んでいる。いや、それにしても良かった。現代詩にも希望が持てる。私も、読む人に希望を持たせるような文章が書けるようになりたい。瀬尾育生のような高みにまで達したい。
ヴィクター・フレミング「ジャンヌ・ダーク」
 認容と拒絶の映画。人間関係や国家間の関係というものが認容と拒絶の諸段階から説明されることを示し、また、認容から拒絶へ、拒絶から認容へという動的変化を示し、あるものに対する認容が同時に別のものに対する拒絶であることを示している。

 ジャンヌははじめ神の声を聞き神に認容される。だが途中で神の声が聞こえなくなり、神から拒絶される。しかし、最終的にはまた神の声を聞く。

 ジャンヌは、地方を治める領主に、皇太子に会わせるよう懇願するが、はじめは拒絶される。だが、根気強く懇願を続けることで、その拒絶が認容へと変化する。拒絶から認容への動的変化がある。

 戦争とは、相手の国に対する究極の拒絶であるが、同時にそれは、戦友に対する強い認容でもある。拒絶には憎しみや嫌悪などが付随するが、認容には友愛や好意が付随する。

 世界史や人生というものは、様々な事情が介在することによって、国家や人間が互いに様々な程度で認容・拒絶しあい、また認容から拒絶へ、拒絶から認容へと関係を変化させることで成立しているのではないだろうか。
nikki
 勉強って何なんだろう。よく分からん。とにかく本を読み始めるときの抵抗が一番のストレスな気がする。読み始めると、一定時間は自動的に進んでいく。それなりに楽しめる。そしてすぐ疲れて読むのをやめる。

 疲れてささくれた心で近くの小さな山に登った。外は明るかったが、山道は暗かった。4時ごろだったが、山の中だけ少しだけ時間が進んで夕方になっている感じだった。自然の中の植物の過剰さを見ていると、ビアズリーの装飾性が全然過剰でないことに気付く。むしろビアズリーは禁欲的だ。自然ほど装飾的なものはない。

 ツェムリンスキーを聴いた。衝撃的だった。世紀末芸術の音楽版。装飾的・耽美的・夢幻的。私の既成の音楽認知の枠組みには収まらなかった。古典派なら古典派の枠組みにあてはめることで納得して聴ける。だが、ユーゲントシュティール音楽という枠組みは私の中にはなかった。私は「他者」と出会った。繰り返し聴くことで、新しい認知枠組みを獲得しようと思う。
ヴァイオリン協奏曲
 パガニーニのヴァイオリン協奏曲第5番第1楽章を聴いていて思ったのだが、ヴァイオリン独奏部は特殊性を、オーケストラは普遍性を表しているのではないだろうか。

 特に、ヴァイオリン独奏部は、美しく繊細でしなやかな女性の特殊性を表しているかのようだった。それに対して、オーケストラの部分は、女性の人間としての普遍性、例えば心臓の鼓動とか歩くこととか食事を摂ること、を表しているかのようだった。

 歩くことそれ自体はオーケストラが力強く表現するが、歩き方に表れる女性らしさは、ヴァイオリン独奏部が表現しているように思われた。そこでは、美しい女性の、他の人間と共通する普遍的なあり方(オーケストラ)と、その女性の特徴である美しさ(ヴァイオリン独奏)が、互いに混合・分離しながら展開されていた。私は女性の美しさという特殊性に惚れてしまいそうだった。
予定
 今日も疲れた。いかんなあ、もっと楽をせねば。でも昨日友達とドライブに行ってきた。高原牧場。癒された。

 「狼」の次号では、廿楽順治さんの「たかくおよぐや」を物語性の観点から批評しようと思う。廿楽さんの詩には、ほかにも批評しやすい様々な特徴があり、それらを指摘した方がより個別的であり批評っぽいのだろうが、あえてもっと普遍的な観点からとらえようと思った。やっぱり批評より詩論の方が好きなんだよね。困ったものだ。

 「kader0d」の次号では、前-言語から言語が生成される仕組みについて書こうと思っている。だが、今読んでいる黒田亘の論文集「経験と言語」が難解であり、自分のものとできるか不安だ。イアン・ハッキングの本も読むつもり。言語哲学は避けて通れませんよ、やっぱり。明晰・簡潔・緻密な文章を、私は理想としている。真に問題をよく理解しているならば、そのような文章が書けるはずだからだ。はたしてそのような文章を書けるだろうか。とにかく詩学の底上げをしたい。基本的なことを主題的に明確に詳細に論述したい。