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Author:sk
28歳。男。たまに詩を書いたりもする(筆名「広田修」)。哲学が好き。
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Albatros BLOG
日々の雑記。現代詩の話や哲学の話。文学や音楽、美術、芸術一般の話。ただただ書き捨てていくだけ。
藤原基央の歌詞について
 BUMP OF CHICKENの歌詞が良いとされるひとつの理由は、それが我々の強い感情、特に痛みを伴う経験を追体験させ、それを擁護するからだ。

やっと会えた
君は誰だい?
あぁ そういえば
君は僕だ
大嫌いな
弱い僕を
ずっと前に
ここで置き去りにしたんだ
(「ダイヤモンド」より)


 人は子供から大人になるまでの一時期、何らかの形で追い詰められ、弱い自分を捨て去ることを強いられる。だがそれには苦しみを伴う。他人に依存し、他人に助けてもらうという楽な立場から、覚悟を持って世界へと立ち向かう立場へと移動しなければならない。それには美しく弱い自分を喪失する痛みを伴う。荒風に立ち向かう強さを得るために汚れなければいけないからだ。

 弱い自分を置き去りにすることは、そのようなとても感情的なできごとであり、それが強いられた強い痛みであるゆえ人はそのことにいつまでたっても執着する。藤原はそのような執着された感情的な出来事を歌詞として提示することで、聴く者にそのドラマを追体験させ、その体験が多くの人と共有されたものであることを示し、またその体験を擁護する。藤原は執着された感情的な出来事を示すだけだが、それは肯定的に示しているのであり、間違っても否定することはない。

 弱い自分を置き去りにするような、個人史的なドラマを再び体験させ、かつそれを普遍的なものとして擁護する。聴く者は感情を揺さぶられると同時に慰撫され、優しい感傷に浸ることができる。恐るべき作詞技術だ。
他人の詩を読むこと
 某広場で、過去の詩人の作品を読まなくてもいい詩は書けるし、読んでもいい詩はかけてないじゃないか、という半ばヒステリックな主張が何度か繰り返されている。だが、まず彼らがどういう詩を優れた詩だと考えているのか分からない。詩をたくさん読んでいる人の作品が自分の好みじゃないからといって、ホラ見ろ、過去の詩を読んでも意味ないじゃないか、というのは説得的ではない。そのような主張をするには、まず、自分が詩の良し悪しを客観的に正しく認識できなければいけないはずである。

 また、過去の詩をたくさん読むことの目的は、優れた詩を書くことのみではないことに注意すべきだ。過去の詩をたくさん読むことの目的は、感受性を磨いたり、過去の人がそれぞれの時代にどんなことを表現しようとしていたのかを知ったり、教養を身につけたり、単純に楽しんだり、批評の題材にしたり、いろいろあるわけだ。過去の詩を読んでもよい詩がかけないからといって、その人が過去の詩を読むことの目的を達成できていないわけではない。例えば純粋な批評家は、実作のためではなく、より良い批評を書くために過去の詩を読むだろう。

 ちなみに私見を言うと、自分の詩の可能性を広げるには、他人の詩を漫然と読むだけではたりないと思う。それをある程度ていねいに批評する必要がある。ある程度集中して読み込まないと、作品のあり方が充分に見えてこないのである。

 私はこれまで何人かの詩人を比較的まともに批評してきたが、それによって得るものは大きかった。例えば今唯ケンタロウさんの詩を批評することで、詩において運動を顕現させることで「動因としての詩人」という見方ができるようになった。また、運動的な詩を書く技術も知ることができた。島野律子さんの詩を批評することで、生活の湿度、物質の透明性、世界の複雑な関係構造を詩の中に反映させることの独特の効果というものを学んだ。

 自分にはいまだ備わっていない、「詩人の特定のあり方や世界の特定のあり方を詩に反映させる技術」というものを、他の詩人を批評することで得ることができると思う。これは他の詩人の作品を読むことの目的のひとつだと思う。だが、この目的が達成されたからといって、特定の人の好みに合う詩を書くことにはならない。特定の人の好みに合う詩を書けるようにならなくても、他の詩人の作品を読むことで、他の様々な目的を達成することができるはずである。
自己批評
 Sさんとこの間話したとき、君は客観的な傍観者としての散文ばかり書いているが、実作者としての立場はどうなんだ、ということを訊かれた。書き方や、選ぶモチーフが自分の中の何に基づいているのか、そういう問題も提起された。

 そう言えば私は、自分の実作者としてのあり方・その深層について深く考えることがなかった。だが、他の誰を評するよりも、自分を評することの方が、内面的な情報量の点では有利であり、他の詩人を批評するにはまず自分を批評することから始めなければならないような気もする。自己批評というのは実はとても面白いのではないか。

 自分の作品をなるべく客観的に見ることによって、自分では気づいていなかった自分の作品のありようが見えてくるような気がする。私は自分の作品について興味がなさ過ぎる気がする。自分の作品を見つめなおすことで、その限界を知り、その限界を超えていく契機にもなるかもしれない。たぶん私の作品は恐ろしく偏っていると思われる。
法律学と詩学
 だいぶ前から思っていることなのだがそう言えば書いてなかったような気がするので書いておく。

 法律学というのは論点ごとに議論が整理されていて、例えばこの論点についてはA説B説があるが、A説にはこのような批判が、B説にはこのような批判があり、さらにA説はその批判にこのように反論している、などといった具合である。

 ところが詩学というもにはそのような体系化がなされているとは思われない。だが体系化といってもそんなに大げさなものではない。少し具体的にやってみよう。

 例えば詩を書く目的は何か、という論点。それに対して以下のような説が主張されているとする。

A説:お金、名誉等世俗的な価値
B説:自己実現
C説:精神修養
D説:快楽
E説:詩作のスキルアップ
・・・

それに対して以下のような批判が可能である。

A説に対する批判:世俗目的で詩を書けば詩が堕落する
B説に対する批判:詩を書くことはともすると言葉の遊びに陥り自己の人格の発展にそれほど寄与しない
C説に対する批判:もっぱら快楽のために詩を書くものも多く精神が鍛錬されるとは限らない
D説に対する批判:快楽目的のみで詩を書き禁欲的な精進がないのならばおのずと詩作のレベルに限界ができる
E説に対する批判:テクニック偏重に陥る可能性

これは別に難しいことでもなんでもなく、少し頭を使えば簡単にできることである。各論点ごとにこのような体系化を進めていけば、結構手軽に詩学を理論化することができるのではないだろうか。

 だが、本格的にこれをやろうとすると、古今東西の膨大な詩に関する文献を読み、それを体系の中に位置づけるという作業をしなければならない。だがいずれ誰かはやらなければならない仕事ではないだろうか。私はまだできそうにないが。
更新
「詩と向き合う」更新。
列挙する能力

当たり前のことを秩序だてて詳細に論じることの難しさ。
非連続から連続
 詩というものは非連続な断片たちを継ぎ合わせた構成体です。例えば次のようなパッセージを考えます。

 人々はこねられていた
 ゆがんだ体育館の中で

一行目と二行目の間には、二行目をどうしようか考えるという過程がはさまっています。場合によっては、一行目を書いただけで筆をおいてしまって、一通り生活の行為をした後、次の日に二行目を書くかもしれません。その場合、一行目と二行目の間には生活の様々な思考・行為が挟まっています。

 歴史的で一回的で連綿と続く生の中の、飛び飛びになった短い時間だけ、詩人は詩を書いています。詩を書いている時間は、連続する生の断片的で非連続的な部分に過ぎません。ですが、ここで、詩に書かれている内容を、なるべく連続的な生に近づけようとすることを考えてみます。例えば次のようなパッセージ。

 人々はこねられていた
 (なかなかいい詩行だ)
 (うーん、どんな場所がいいかな)
 ゆがんだ体育館の中で

こうすると、本来断片的で非連続的な詩というものが、より現実の生の流れに近づき、連続性をある程度回復しているように思えます。ほかにも、例えば一行目と二行目の間に5分間の時間が流れていたら、

 人々はこねられていた
 (5分間)
 ゆがんだ体育館の中で

このように書くことも考えられます。詩がその基盤である生の連続性をとりこむことの当否はさておき、そのような試みがあっても面白いと思います。
構造
 世界の構造というものは、これは基本的に動かしがたいものです。世界を規律している力学の方程式は、その根拠を問うても無意味です。そうなってるからとしかいいようがありません。だから、私たちのするべきことは、まず世界の構造を把握すること、そして、その構造を重要な要素ごとに分割し、それぞれの要素について詳しく分析し、また要素間の相互依存について詳しく分析することだと思われます。

 例えば現代詩というものを論ずるにあたって、まず、現代詩をめぐる世界の構造を把握するというのが重要だと思われます。現代詩をめぐる現代詩空間を構成する要素として、詩人、読者、社会、制度、歴史、理論、批評などが挙げられると思います。これが第一段階。次に、それぞれの要素について詳述する。例えば詩人という要素だったら、その心理学的な機構であるとか、詩人をめぐる環境であるとかについて詳しく述べる。これが第二段階。最後に、要素間の相互関係。例えば詩人と制度との関係だったら、詩人と商業詩誌がどのような関係にあるのか、詩人と詩人賞の関係、などについて述べることになる。

 世界の構造をマクロに把握し、次にそれを分節化し、今度は分節化した要素によって再び世界を構築してゆく。このような大局的かつ局所的な体系的理解も必要でしょう。
文学フリマ
■文学フリマのご案内

詩誌『kader0d』2号は、今月の9日くらいに刷り上る予定です。

執筆陣は佐藤雄一、広田修、田代深子、伊達風人、白鳥央堂、佐原怜、外山功雄、清野雅巳、岡部淳太郎です。

http://kader0d.petit.cc/でお買い求めいただけます。また直販はさしあたり5月11日(日)の文学フリマで佐々木敦氏のブースで委託販売をさせていただきます。詳細は以下の通り

[日時]5月11日(日)11時‐16時

[場所]東京都中小企業振興公社 秋葉原庁舎 第1・第2展示室

(JR線・東京メトロ日比谷線 秋葉原駅徒歩1分、都営地下鉄新宿線 岩本町駅徒歩5分)地図http://bunfree.net/?%C3%CF%BF%DE

[ブース]B-45 会場地図http://bunfree.net/2008_spr/circle_base_b.html

[定価]700円

[頁数]150ほど

★30冊ほどもっていく予定ですが、売り切れる可能性もないとはいえないので、確実にお求めになられたい方はなるべくはやめの時間にいらしてください。

***

よろしくお願いします。しかし、夕食をインスタント麺で済ますとなぜか寝つきが悪い。理由がよく分からないのだが、カロリーが少ないのと喉が渇くのが原因だろうか。でももっと他の原因がある気がしてならない。
没原稿
昔の詩を読み返していると、本当に最初期のころはまったくへたくそな詩を書いていて恥ずかしくなってくる。今までに没にした原稿のうち比較的まともなものをさらしてみる。

**

 「音楽」と名づけられた風景がある。それはとどまったまま飛翔しているので、見る者は線状の雲におそわれる。拡大すると雲には多くの鋭利な側根があり、空を吸いとる音のかたまりが、鎔けないまま白亜紀までとどく。また、それは非世界から世界へとうまれてきたのだが、世界の言葉のない河口で、装飾された関節部や憎しみの浄化作用などさまざまなものを失った。だがかわりに、長大なレニウム柱や無数の毒花などが、風景の分裂した核から伸びるサイクロイド上に、次々とひろがりを浴した。「音楽」にはときおり無の雨がふりそそぎ、等間隔にひかれた斜線がひととき「音楽」を部分的に消し去る。
nikki
詩手帖はまた選者が変わりますね。投稿を始めたころは入選とか佳作とかにだいぶこだわりがあった気がします。今となっては昔ほどのこだわりはないですね。いちいちコメントしようとは思わなくなりました。今年度は6作入選でした。前年度は2作。前々年度は10作。今年度は前年度と前々年度のちょうど中間ですね。といってもとくに感慨はないのですが。受賞に対するこだわりというのも、今となってはほとんどなくて、ああなるほどなあ、と感じるくらいです。

詩を書くのは楽しいのですが、享楽原理で動いている自分がいて、それをまだきちんと批判しきれていない。求道的精神、目的論的精神が十分に働いていない。詩を書くことによって達成される高邁な理想というものがあって、その理想に向けて身を削って精進する、そんな気持ちがまったくない。そもそも詩でもって達成できる理想というものについてまともに考えたことすらない。・・・書いていて恐ろしくなってきました。とりあえず、享楽原理の批判と詩作の理想の探求、これが僕の課題でしょうか。その課題に取り組んでいるうちに、詩作原理が高次のものに止揚されるか、あるいはやっぱり享楽原理が良いとの結論になるか。それはわかりませんが。