プロフィール

sk

Author:sk
28歳。男。たまに詩を書いたりもする(筆名「広田修」)。哲学が好き。
コメント・トラックバックは歓迎します。


FC2 Blog Ranking
にほんブログ村 ポエムブログ
にほんブログ村 自作詩・ポエム
にほんブログ村 美術ブログ
にほんブログ村 哲学ブログ
にほんブログ村

カレンダー

10 | 2008/11 | 12
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

リンク

このブログをリンクに追加する

ブログ内検索

RSSフィード

Powered By FC2ブログ

Powered By FC2ブログ
ブログやるならFC2ブログ

Albatros BLOG
日々の雑記。現代詩の話や哲学の話。文学や音楽、美術、芸術一般の話。ただただ書き捨てていくだけ。
原理的不可能に対する罪悪感
 映画を見るということは、「他人のかけがえない人生を短時間で消費してしまう」ことに伴う罪悪感・喪失感に耐えるということだ。登場人物のそれぞれの出来事は、彼らにとって唯一で取り返しがつかない価値を持つ。特にその出来事がドラマチックなものであればなおさらだ。そして映画はまさにドラマチックな出来事を扱うのである。

 登場人物のドラマチックでかけがえのない大きな時間を、観るという行為で短時間で軽々と消費してしまう我々。しかも、我々はその出来事を、登場人物と同じだけの真摯さを持って受け止めていない。我々は、登場人物と同じだけの真摯さを持ってドラマに立ち向かい、苦悩し、感覚し、決意し、突き抜けなければならないのではないか。だがそれは原理的に不可能である。

 登場人物のかけがえのないドラマを、我々は原理的に軽々しく消費することしかできない。この原理的不可能に対する罪悪感。どうすることもできないことに罪悪感を抱いてもしょうがない気がするが、この罪悪感は、神に対する罪悪感に似ているのだろうか(キリスト教は詳しく知らないが)。つまり、原理的に罪を犯さずにいられない人間の、神に対する罪の意識に、似ていないだろうか。原理的不可能に対する罪悪感という意味で。
アルフォンソ・ケアロン「大いなる遺産」
 回帰の映画。(1)フィンが幼いころ、ディンズムア婦人はフィンの手を自分の胸にやり、このハートはブロークンだ、と言う。エステラがフィン以外の男と結婚したとき、今度はフィンがディンズムア婦人の手を自分の胸にやり、このハートはブロークンだ、と言う。(2)フィンがはじめてディンズムア邸を訪れたとき美しい少女(エステラ)を見る。画家として成功したフィンが廃墟となったディンズムア邸を訪れたとき、エステラの娘を見る。

 純粋な回帰はありえない。歴史は繰り返されると言うが、同じような出来事があっても決してまったく同一ではありえない。それゆえ、回帰において現在と過去はせめぎあう。同時に、回帰においては、過去は記憶の中のあいまいなものではなく、あたかも現在であるかのように、現在に化体して、現在に似た強度で、顕現する。回帰においては、過去が現在に似た強度をもって顕現する。と同時に、過去と現在の埋められえない断絶が明らかになる。回帰において、我々は、現在と過去の一致に驚きながら、過去を懐かしみ過去の甘さに浸りながらも、同時に避けられない現在の苦さに耐えなければならない。
ジャン・ルノワール「大いなる幻影」
 ストーリーを書くということは、登場人物にそれぞれの行為をする機会を与えるということである。

 本作では、ルノワールは、マレシャル中尉には本心をさらけ出す機会を与えているが、貴族のポアルディウ大尉には本心をさらけ出す機会を与えていない。それゆえ、観る者としてはマレシャルには親近感を感じるが、ポアルディウには隔たりを感じる。

 一方で、ポアルディウには自分を犠牲にして仲間の脱走を助ける機会を与えているが、マレシャルには自己犠牲の機会は与えていない。それゆえ、観る者のポアルディウに対する評価は高まる。

 「登場人物」という概念は不思議な概念だが、仮に「登場人物」が自分が観客に強い印象を与えることを望んでいると考えるのならば、脚本家はその登場人物に活躍する機会を与えることで、その希望をかなえてやることができる。「登場人物」が全体の調和を望んでいるのならば、脚本家はその登場人物に適切な機会を与えることでその希望をかなえてやることができる。

 (マレシャル、脱走)みたいに、(登場人物、機会)の組み合わせの連鎖がストーリーであろう。そして、(登場人物、機会)の組み合わせは観る者に対してそれぞれの効果を持ち、それぞれの組み合わせは互いに影響しあっている。

 なんかまとまりのない文章になってしまった。

オットー・プレミンジャー「黄金の腕」
 とにかく葛藤の映画。二項対立になじみやすい。

・ザッシュ(妻)⇔モーリー(愛人)
・ドラマー(堅気の職)になりたいという欲求⇔賭博のディーラーになれという圧力
・ザッシュはディーラーになることを希望⇔モーリーはドラマーになることを援助
・麻薬の誘惑⇔更生したいという希望
・麻薬の売人⇔療養所の医師、モーリー

このような二項対立の間をフランキーは行ったり来たりする。最終的にこれらの二項対立のうち片方が消滅することで解決が生まれる。ザッシュは死に、フランキーは中毒から立ち直り、ディーラーを辞める。

 二項対立で葛藤を生ぜしめ、その片方を消滅させることで物語の解決を導くというのはストーリーの組み立て方のテクニックのひとつであろう。そこに細部を肉付けすればいい。
ジョージ・キューカー「ガス燈」
 他人を追い詰めたりする行為を、知能を使う目的とすることの規範違反性。私の中には、他人を害することを目的として頭を使うことに対するかなりの抵抗がある。だから、グレゴリーが綿密に計画を立ててそれを実行し、ポーラを追い詰めて宝石を手に入れる、そういうことには違和感を感じる。グレゴリーに共感できない。

 それだけではなく、私は、頭を使う目的というものが結構限られていて、それ以外のことには頭を使おうとしない。例えば、文章を書くときには当然頭を使うが、本を部屋のどこにどう並べるかなどといったことにはほとんど頭を使わない。何に頭を使うかについて、私は、社会から与えられた規範に盲目的に従っているだけかもしれない。たまに、自分が頭を使っていない目的に頭を使っている人がいて、それをまねたりすることはある。
ハワード・ホークス「三つ数えろ」
 「解消されることのない唐突さ」がいくつも現れてきて、それは異物みたいにゴロゴロしていて私はまったく咀嚼できなかった。

 例えば友人が家に来るなりいきなりパンを食べ始める。私はその唐突さに驚くわけだが、友人は「いや実は朝飯を食っていなくてね」とその唐突さの理由を説明してくれるだろう。そうすることにより、私は唐突さを理解し、唐突さは解消される。

 だが、この映画では、マーロウはいきなり電話をかけたりするが、それがいったいどんな思い付きによるもので、何を知ろうとしているのか、何をたくらんでいるのか、観ているものにはわからない。よって、電話をかけることの唐突さは解消されない。また、マーロウはいきなり種明かしをしたりするが、その真実に至る心理的推論過程が観ているものにはまったく分からないので、種明かしの唐突さも解消されない。

 この映画は観るものの参加を拒んでいるかのようだ。登場人物の内面がここまで隠蔽され、観る者から能動性を剥奪するのは、よいことなのだろうか。とりあえず、情動的な心の動きは外面から推知されやすいが、理知的・論理的な心の動きは外面からはほとんど分からない、ということが改めて分かった。
マイケル・カーチス「カサブランカ」
 恋愛に関する苦悩や悲しみは、とても甘いように思える。苦悩や悲しみの底流には甘い思慕があり、苦悩や悲しみはその思慕と(協・不協)和音を作ることで修飾される。

 リックはイルザをラズロ(だったかな)に譲るが、その犠牲の悲しみが独特の韻を帯びるのは、その悲しみの根底に甘い思慕があるからだ。恋愛の争いにおいて自分が犠牲になるのが比較的容易なのは、その甘い思慕により、悲しみがより美しいものとなり、その悲しみに酔いやすくなるからかもしれない。
アルフレッド・ヒッチコック「レベッカ」
 ボールが転がっているとき、その原因としてはいくつか考えることができる。人が転がしたのかもしれないし、犬が転がしたのかもしれない。遠くから飛んできて近くで落ちてここまで転がったのかもしれない。原因を突き止める際、その事象をめぐる状況を考慮する。近くに人がいれば人が転がしたのだろう、など。ひとつの事象があって、その原因を「解釈」するとき、解釈は複数ありうる。そして複数の解釈の間には優劣がつけられていることが多い。どれが真の解釈であるか、というランク付け。

 ストーリーの展開において、この解釈の複数性を利用することができる。初めは解釈Aをもっともらしいものとして提示しておきながら、あとから実はもっと真実性の高い解釈Bを提示する。そのようにして真実に迫ることの、目の覚めるような戦慄。これがとても楽しい。ほかにも、はじめは何の解釈もできなかった、つまり原因が分からなかったのだが、あとから真の解釈を提示する、という展開も見るものを楽しませることができる。無の解釈を充填するのである。

 「レベッカ」は、偽の解釈から真の解釈への変更、無の解釈の補充により観る者を楽しませる、解釈による娯楽作品である、ということもできる。マキシムがレベッカにまつわる事柄を忌避するのは、初めは、彼が彼女を愛していたのに彼女が死んでしまったのでその傷に触れられたくないからだと観るものに思わせるが、あとから、マキシムは実はレベッカを憎んでいて、レベッカの死に関与していたからだということが判明する。どちらの解釈もマキシムの忌避を説明することができるが、後者のほうが真実であるとされる。レベッカは悪魔のような女であり、その原因ははじめわからなかったが、最後には彼女が末期癌であったことが明らかになる。そのことによりレベッカのすさんだ心も幾分は理解できるようになる。


アーチ・メイヨ「悪魔スヴェンガリ」
 精神・身体の運動継起としての人生という流れは、決して合流することがないのだなあと感じた。液体の川は合流し、混ざり合う。だが、複数の人生は決して混ざり合わない。人生は液体や気体ではなく、弾力的な固体として、流れるのではなく伸びていくのである。

 そのように感じたのは、主要な登場人物であるスヴェンガリ、トリルビー、英国青年(名前を忘れた)のそれぞれが、互いに対照的な人格を持っていたからである。彼らはみな本質的な人格特徴が異なっており、それゆえ、互いに交渉しようと、決してその人格の外枠を崩すことがなく、それぞれの硬い表面を保ったままである。

 だが、実際の人間の人生というのはある程度液体的であると思う。複数の人間が親しく交われば、ある程度互いの人格が混じりあい、似てくる。この映画は、あくまで登場人物の人格の固体性を失わないように作られていた。人生と人生のぶつかる、硬質な響きが心地よかった。
ヘンリー・キング「キリマンジャロの雪」
 ハリーとシンシアの恋と愛の物語。だがそれ以上に興味深かったのは、ハリーのおじが、小説を書くことを「狩」でたとえていること。また、キリマンジャロの西の頂上には氷漬けの豹がいることの謎である。

 真実をとらえることを狩でたとえるのは果たして妥当だろうか。というのも、狩によって得られるのはせいぜい死んだ獲物に過ぎず、生きた獲物を得ることはできないからだ。狩によってとらえられた真実は、結局死んだ真実に過ぎず、生きた真実を得ることはできないということにならないか。実際、生きた獲物というものは我々の手に負えない。それを殺すことで、われわれはそれを有益に利用することができる。だが、真実を手に入れるとき、それを自分の扱いやすいよう状態にすることは果たして妥当か。真実を手に入れるとき、それがなかなか手に負えないものであったとしても、生きた状態で何とかそれを自分のものにすることが妥当なのではないか

 狩をするには獲物を追い求める必要がある。氷漬けの豹は、獲物がまったくいない寒い高みにまで獲物を追ってやってきた。これは愚かなことなのだろうか。究極の獲物を求めるために、一見獲物がいなさそうなところでも我慢して、どんどん不毛な土地を突き進む。そういう賭けをしたのではないだろうか。結局豹は賭けに負けた。キリマンジャロの山頂に獲物はいなかった。だが、豹は純粋な狩の運動としての自らを、氷漬けになることで永久に固定した。豹は狩の運動、真実を追い求める運動そのものとして、その美しさを我々に示している。