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| 行為の統辞・範列 |
行為には意味がある。たとえば手を挙げる行為は、自分がタクシーに乗りたいという欲求を意味する。これは、行為と対象(あるいは内容)との間の記号関係である。意味があるという点において、行為も言語に似ていると言える。
ここで、「意味」という語を広義にとらえ、あるものXの価値も、Xの意味であるととらえることにする。たとえば微笑むという行為は、相手に好意を示すという機能・目的を果たすが、この機能・目的を、微笑むという行為の意味として捉えるのである。
ところで、行為は、意味を持つという点だけではなく、他の点においても言語に似ている。定型的な行為の連鎖もまた、言語と同じく統辞構造や範列構造を持つのである。
統辞構造とは、たとえば「I gave her a present.」という統辞的単位(言語の場合はたとえば文である)において、主語のあとに動詞が来て、そのあとに目的語が来るというような、語の結合の規則によりできあがる構造である。
また、この文では、Iの代わりにhe,she,Samが置き換え可能であり、gaveの代わりにsent,boughtが置き換え可能である。このような、それぞれの統辞的部位において置き換え可能な語が多数あるような構造が、範列構造である。
さて、たとえば「外出」という行為の連鎖を考えてみる。我々は外出する時、歯を磨き、服を着替え、ドアを開け、ドアを閉め、自転車や自動車に乗り込み、出かける。この場合、歯を磨くことと服を着替えることはどちらが先でもいいが、どちらともドアを開ける前でなければならない。また、ドアを閉めるのはほとんどの場合ドアを開けたあとである。自転車・自動車に乗るのは、ドアを閉めたあとである。
このように、「外出」という行為の連鎖においては、それを構成する一つ一つの行為の間に結合の規則があり、これを統辞的構造と考えることができる。個々の行為は文を構成する単語に対応し、「外出」は文に対応する。「外出」もまたひとつの統辞的単位なのである。
また、「外出」においては、自転車に乗ることと自動車に乗ることは交換可能であり、自転車に乗ることと自動車に乗ることは範列関係にある。
人間の定型的行為もまた統辞構造と範列構造を持ち、その点においても言語と類似する。
テーマ:ことば - ジャンル:学問・文化・芸術
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| 記号論(2) |
池上は、たとえば「炎のツララ」のような比喩によって、記号が創造されるという。記号関係は「記号−内容」という関係であるが、このような比喩によって、新しい内容が生み出されるというのである。
だが、新しい内容とは何であろうか。「炎のツララ」は例えば「山の木」とどう違うのか。「山の木」においても、「山」「の」「木」が組み合わされることで、個別の単語だけでは表せない、新しい内容が創造されているのではないだろうか。
池上は恐らく「山の木」のような単語の連結では新しい内容は生み出されていないと考えているのだろう。「山の木」が何を表しているのかを、我々は「山」「の」「木」それぞれの表す内容と文法規則から一義的に知ることができる。山に生えている木のことだと誰もがすぐに分かる。
それに対して、「炎のツララ」が何を表しているかは、我々は一義的に知ることができない。ツララは氷でできているのであり、その内容が、「炎」の意味内容と衝突するからである。「炎のツララ」とは炎でできたツララのことである。
結局、ツララのような冷たさと硬さを備えているかのように見える炎を表しているわけだが、そのような内容は「炎のツララ」の文字通りの意味(炎でできたツララ)を超越している。つまり、文字通りの意味を超越した内容が意味されているわけだ。そこに新しい内容の創造、ひいては新しい記号の創造がある。隠喩における記号の創造とは、文字通りの意味を超越した意味内容の創造の謂いである。 テーマ:ことば - ジャンル:学問・文化・芸術
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| 記号論(1) |
さて、池上嘉彦の「記号論への招待」を批判的に読んでいこうと思う。
記号にはicon,index,signの三種類がある。 ・iconは、絵と対象のように、類似性によって結び付けられた記号関係である。 ・indexは、火と煙のように、因果関係によって結び付けられた記号関係である。 ・signは、言語と対象のように、シニフィアンとシニフィエの結びつきが任意である記号関係である。
池上は、記号は固定したものではなく、絶えず人間によって創造されることを強調している。では、記号の創造とはどのような場合に起るのか。
例えば、人が、ある病気が特定のウィルスによって引き起こされることを発見した場合。このとき、そのウィルスの「意味」はその病気である。ウィルスが病気を因果的に指示している、indexの事例である。このとき、この科学的発見によって、「ウィルス−病気」という記号関係(index関係)が創造されたわけである。
index関係に関しては、因果関係の発見により、人間の記号創造活動が行われる。では、sign関係に関してはどうだろうか。
池上は、この点に関して、言語の習得の過程を引き合いに出している。だが、言語の習得は創造ではなく、対応付けでしかないと思われる。
例えば人が「犬」という記号を知らなかったとしよう。だが、記号を知らなくとも、人は対象を認識できる。「犬」という記号を知らなくとも、犬を他の対象から分離して、犬について認識を深めていくことができる(吠える、尻尾を振る、えさを食べるなど)。この場合、言語以前の記号関係が成立しているといえよう。つまり、ある対象の心的なカテゴリーができあがり、そのカテゴリーに、吠える、尻尾を振る、えさを食べるなどといった意味内容が結びついていくのである。「名づける」という行為は、この心的なカテゴリーを音声(「犬」)などで代表して、思考の便宜に供しようという行為に過ぎない。
人が言語を習得する場合、上で述べた心的カテゴリーによる記号関係は既に成立してしまっている。言語を習得するとは、その心的カテゴリーをどのような音声や文字で代表させるかを学ぶことであるに過ぎない。心的カテゴリーと音声・文字との対応付けをするだけであって、記号の創造は既になされてしまっているのである。 テーマ:哲学 - ジャンル:学問・文化・芸術
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