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Author:sk
28歳。男。たまに詩を書いたりもする(筆名「広田修」)。哲学が好き。
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Albatros BLOG
日々の雑記。現代詩の話や哲学の話。文学や音楽、美術、芸術一般の話。ただただ書き捨てていくだけ。
歴史
 今まで歴史というものが嫌いで、高校の頃は全然興味が持てなかった。だが、最近、歴史は実は面白いんじゃないかと思えてきた。

 まず、最近多くの映画を観て、人生に対する興味が湧いてきたということがある。人間が様々な状況に置かれ、その状況の下で一定の感情を抱き、諸々の事実を認識しながら行動していく。その積み重ねが人生であり、そこには人と人との間の微妙な感情のやり取りや、場合によっては憎しみ間いだって生じる。そういう細部の集合、そしてそれを束ねる流れとしての人生に対する興味が湧いてきた。

 ところで、歴史というのは、あまたの人生のあまたの行為の中で、特定の重要なものや一般的なものだけを抜き出してできたものだ。書かれた歴史というのはいわば氷山の一角であり、水面下には膨大な量の人生のドラマがある。

 映画を観ることで人生に興味を持ち、人生に興味を持つことで、人生から厳密に抜粋された歴史に対して、その背後にある膨大なドラマとの関連において、興味を持つようになった。歴史は無味乾燥な事実の羅列ではない。歴史的事実はその水面下の人生のドラマの次元において互いに関連しあっているのである。とりあえずは井上靖でも読もうかな。
距離
 距離というものは、通常ベクトルで表される。方向と長さである。だが、公園で木を眺めていて思ったのだが、距離という概念をもう少し拡張してもよいのではないか。私と木との距離は、通常、私と木の特定の部分を結ぶ単一の直線で表される。だが、木は広がりを持つのだから、木を構成するあらゆる点と私とを結ぶ直線の構成する一定の大きさを持った空間を距離としてとらえなおしてもいいのではないか。

 例えば、私の10m先に円があるとすれば、その円を底面として私の方へ向かってくる横倒しになった円柱が、私とその円との距離である。距離はもはや直線ではなく、一定の体積を持った空間である。さらに距離概念を拡張してみよう。私はベンチに座り、まずは地面に目をやり、次に遊具に目をやり、そのあとに木を見るとする。そのとき、私と木との距離は、地面や遊具にも接しながら曲折する一定の体積を持つ空間である。

 「私と木との距離」というものを、「私と木とをつなぐ何らかの空間」ととらえなおしてみれば、その空間は私と木とに接していればよく、あとはどんな空間的な造形をしていてもかまわない。私と木との距離は、あらゆる可能的な空間的オブジェであり、例えばそれは「太陽の塔」の形をしていてもかまわない。
日記
 スタイル(style,Stil)という概念の適用範囲の恐るべき広さ。芸術においてスタイルは「様式」と呼ばれ、道徳においてスタイルは「倫理」と呼ばれ、心理においてスタイルは「人格」と呼ばれ、社会においてスタイルは「制度」と呼ばれる。(大雑把に適当に書いたので突っ込まないでください)

 スタイルは一定程度の適用範囲を持たなければならない。つまり、一定の長さの時間持続するか、一定の数の物(者)に保持されるか、その一定の安定性がないといけない。

 また、スタイルには一定程度のシンプルさが必要である。多くのものがそのスタイルに従うための、一定程度のシンプルさ、すなわち多少の多様性をなおも同一のスタイル内で許容すること。

 適度な安定性と適度ないい加減さをもったスタイルであるが、それゆえにそれは変化し、また様々な段階・観点で認識される。
移動
 東京に行ってきました。集まってくれた皆様に感謝。

 それでいつも思うんですけど、移動することって不思議ですよね。まったく移動のない世界というものもあってもよかったと思うんですけど、世界は移動で満ちていますね。某哲学者の問いをもじって「なぜ移動するものは移動するのか」と問いかけたくなりますね。

 でも、「移動するものが移動する」世界がいつまでも持続する保証はどこにもありません。あと数秒後に世界は停止するかもしれない。いや、案外世界はちょくちょく停止しているのかもしれません。ただ、世界が停止すると人間も停止するので、人間は停止を認識できず、結果として世界が停止しなかったとされているだけかもしれませんよ。

 人間は現在だけでなく、少し先の未来や少し前の過去も把握しながら未来へと進んでいく、とはよく言われます。ですが、ここで重要なのは、近過去、現在、近未来、の単純な存在ではなく、それらの関係、つまり、近過去―現在、現在―近未来の表象が互いに整合しているということです。

 建物の一側面の全体を視野に入れながら、その側面に沿って歩いているとき、一瞬後の自分の位置は現在自分のいる位置の少し前になると予想されます。近未来は現在の中にしかるべき位置を得ており、近未来が現在となったときは、だいたい一瞬前の現在において予想された通りになります。

 ここで、この整合関係が崩れたらどうなるでしょうか。町を歩いていたら、一瞬後に見たこともない森の中を歩いている、そのようなことがおきたらどうなるでしょう。でも僕が問いたいのは逆のことです。「なぜそのようなことは起きないのでしょう?」
社会と人格と名前
 人は属する社会に応じて異なる役割を持っている。Aさんは会社では課長であるが家庭ではお父さんであるかもしれない。そして、役割に応じて言動は異なっていて、その社会の他の構成員の目に映るその人の人格も異なってくる。Aさんは会社ではてきぱきと仕事をするので、仕事熱心という人格を備えた人だと思われているかもしれないが、家庭ではごろごろしているのでぐうたらな人格を備えた人だと思われているかもしれない。

 つまり、人は社会に応じて言動を異にし、言動を異にするから社会に応じて人格も異にする。ある人が複数の社会に属するとき、それぞれの社会において互いに異なった人格を有するのである。これが人格の複数性である。

 人格が異なれば、その人の呼び名も異なってきてもおかしくはない。実際Aさんは会社では「A課長」と呼ばれ、家庭では「お父さん」と呼ばれているかもしれない。「A課長」はAさんの会社における人格を表し、「お父さん」はAさんの家庭における人格を表す。

 さて、筆名というのも、そのような異名のひとつであり、文筆社会におけるその人の人格を表すための名前である。だが、筆名の特殊性は、それが社会から与えられる呼称ではなく、自ら設定する呼称であるということである。
真偽
 命題は外界と適切に対応しているときに真になる。命題の真偽とは、その命題が、世界の客観的なあり方と適切な関係を結んでいるかどうかによって決まる。「今日は晴れだった」という命題は、今日が晴れだったら真になるのだ。命題の真偽には、「世界の客観的なあり方」という客観的な基準が存在し、その客観的な基準と命題との関係が真偽の問題なのである。

 では、芸術作品について真偽を問うことはできるか。つまり、「何らかの客観的な基準との関係のあり方」によって芸術を評価できるか。

 まず考えられるのは、客観的な現実との対応関係である。ある絵が風景を忠実に写していれば、その絵は「真」であると主張するのである。だが、芸術作品の評価において客観的な現実との忠実な対応はほとんど問題にされないことが多い。

 では、仮構された小世界において、その小世界が現実世界と同様の法則に支配されていることを、芸術作品が「真」であることだと考えられないか。作品の作り出す世界は虚構でも良いが、その世界の構成要素は、現実世界の客観的な法則にしたがっている必要があり、その場合にその小世界を作り出す作品は真だと主張する。例えば小説作品で、筋の展開や登場人物の言動がいかにももっともらしければ、その小説は「真」であるということになる。これはいいかもしれない。

 では次に、作品と読者との関係で真偽を観念することはできないだろうか。読者の趣味に忠実に合致する作品は真であると主張するのだ。だが、残念なことに趣味は客観的ではありえない。よって、作品は特定の読者との関係では一応真でありえても、客観的に真であることはできない。それゆえ、読者との関係で真偽を設定するのは難しい。

 だが、鑑賞者というものを抽象化して、鑑賞者一般におおむね共通する客観的な「時代精神」みたいなものを観念することは可能だ。この客観的な時代精神の求めるものを作品が提供すれば、その作品は「真」であるといえないこともない。大衆文化が圧倒的に優位を誇っている時代であれば、大衆に受ける作品が「真」であることになる、と考えることも可能だ。

批判・非難
 「暴力を振るうのは短絡的だよ」とある人が非難される。非難された人は、そうか、短絡的ならまずいよな、と納得してしまう。「この文章は論理性に欠けるね」とある人が批判される。批判された人は、確かに論理性がないのはよくないな、と納得する。

 だが、本当にこれでいいのか。短絡的であること、論理性に欠けることはなぜ悪いのか。その理由を追求しないまま、批判・非難された人はその批判・非難をそのまま受け入れてしまう。ここでは道徳と同じことが起こっているのだ。批判・非難は道徳律のように、無根拠に我々の行為を矯正する。

 注意しなければならないのは、批判・非難には、批判・非難としての「資格」が授与されていることだ。「論理性に欠ける」という指摘は批判としての資格が授与されているからこそ、批判された人を納得させ、一定の修正行為に導く。例えば「ふわふわしている」には批判としての資格が明瞭には授与されていないため、それが批判として機能するためには強く文脈に依存しなければならない。資格授与が必要な点でも、批判・非難は道徳律に似ている。

テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

物と過程
 生活において物を経験することは多いが、過程を経験することは少ない。例えば、我々は椅子をよく見かけるが、椅子が作られる工程を見ることはまずない。

 理由として考えられるのは、まず、物は生活の役に立つことが多いが、過程は生活の役に立たないことが多いことである。椅子は座れるから役に立つが、椅子を作る工程は我々の生活の役には立たない。

 次に、物を経験するのにかかる時間は短いが、過程を経験するのにかかる時間は長いことである。椅子を経験するには少しの間座るだけでいいが、椅子を作る工程を経験するにはへたすればまる一日かかるだろう。

 過程であっても生活の役に立てばよく経験される。TVゲームは過程であるが、娯楽として役に立つからよく経験される。

テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

「西田幾多郎の生命哲学」(4)
<現在という流れの体系性は、潜在的な差異によって作られている。潜在的な差異が分化して現実化すると流れではなくなる。>

<この潜在的な差異とは、「内面的潜勢力」のことである。というのも、力もまたそのものとしては潜在的なものであり、それが現実化したときは痕跡にしかならないからである。>

<ベルクソンにおいては、潜在的な差異とは、現実世界の多様な変化を生み出す未決定性という力である。>

<さらに、潜在的なものとは「概念の一般性其者」である。個体として実現される事態の背景に横たわる全体である。>

 さて、この箇所に見られるのは、厳密な演繹ではなく、アナロジーによる概念の偶然的な拡張である。潜在的な差異は確かに潜在性において力に類似する。だが、力が結果を引き起こす動的な原因であるのに対して、差異は静的な関係であり、結果を引き起こすものではない。

 西田はどうやら潜在的な差異そのものが力として変化を生み出すと考えているようだが、潜在的な差異は必ずしも自ら変化を生み出す必要はない。変化は潜在的な差異ではない外的なものの力によって引き起こされるのだと考えても良かったはずである。

 力は現実化すると、力そのものではなく、ただ力の痕跡となってしまう。だが、力は自ら現実化するのであって、他の何者かの助力を得るのではない。それに対して、潜在的な差異が顕在化するとき、人間の認識というものが介在する。潜在的な差異は自ら現実化するのではないのである。

 「潜在的な差異」と「力」を安易にアナロジーで同一視するのは危険すぎる。

テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

「西田幾多郎の生命哲学」(3)
<感覚や知覚は思惟などに比べてより直接的である。それは現在と結びついているからだ。>

<現在とは流れであり、様々な部分(知覚の対象、身体の運動など)に分かれながらもそれぞれの部分が一連のものをなしてひとつになって動いていくようなあり方である。現在は厳密に統一され、体系性を形成する。>

<それゆえ、現在には範囲がある。だが、統一された全体という場面を視野に入れるなら、範囲は無限に広がりはしないか。範囲が広くなってしまうと、それはもはや現在とは呼べなくなるのではないか。>

 現在が流れであるというのはわかる。だが、それを、体系性を備えた厳密な統一体である、と言ってしまってよいのだろうか。

 純粋経験の議論では、「私」が成立する以前の主客未分化の経験が論じられていた。純粋経験が現在に根ざす以上、現在もまた未分化のものとしてとらえるのが自然ではなかろうか。

 現在の流れに厳密な統一性を見出すとき、すでに「私」は成立してしまっている。客体の構造を認識するとき、すでに主体は出来上がってしまっているのだ。

 だから、いきなり現在が統一体であることを言い出すのではなく、まずは現在もまた未分化の混沌とした流れであることに言及し、主体の成立に媒介されて初めて客体としての構造を持つにいたる、という点を強調したほうが良かったのではないだろうか。

テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術