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28歳。男。たまに詩を書いたりもする(筆名「広田修」)。哲学が好き。
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Albatros BLOG
日々の雑記。現代詩の話や哲学の話。文学や音楽、美術、芸術一般の話。ただただ書き捨てていくだけ。
ephemeris
 現代詩手帖を見てきたが「内在」が佳作だった。自信がなかったので妥当な結果といえよう。

 松尾さんに、「破壊という語が多すぎる」と言われた。だが、もちろんこれは意識的にわざとやっていることで、それを面白いと見るか過剰でうんざりだと感じるかは読者によってまちまちだと思う。

 世界は根源において破壊されているのではないか、という発想の下に書いた作品で、「破壊」という語の多用により、読者の内奥に破壊のイメージを刻み込むことを目的とした実験的な作品だった。

 しかし、実験精神が裏目に出るというのは少々悲しい。武田氏は「入選に限りなく近い」と書いてくれたから、恐らく私の実験の趣旨を理解してくれたのだろう。詩は実験だと思っているから、これに懲りずにいろいろと試みつづけたい。

 守り手さん(今鳥さん)が、また2編入選していた。たいしたものだ。途中から投稿を始めたので今年の手帖賞はないと思うが、このまま投稿を続けていれば、来年の手帖賞は堅いのではないだろうか。
「わが現在詩点」(1)
 天沢退二郎の「わが現在詩点」を読んで、気になった箇所に解釈を加えようと思う。なお、この文章は文学趣味の人にとっては「名文」なのかもしれないが、私に言わせればかなりの悪文である。全体的に意味不明で、砂上の楼閣でしかない。詩として読むのが、唯一の誠実な読み方なのかもしれない。

 だがこれほどまでに現代文明を犯しつくしたかのようなこれらの精神たちがついにおのれのなかへ含みきれないでいるもの、含みきれずに非現実化してしまったため却って外へ外へと実体を追いやってしまっているものがある。「革命」や「詩」がそれだ。



ここで「精神」とは「主題に奉仕する精神」のことである。「主題」とは、有意味なことを主張する命題、ぐらいに思えばよいと思われる。たとえば、「人間は絶対的に孤独である」などである。主題に奉仕する精神は、それゆえ、明確に命題として言い表せる事実をもっぱら把捉する。「革命」や「詩」は、明確に命題として言い表せないような領域に、その実体がある、ということだろう。

「詩はうまく言語化できない対象を言語化するものである」という主張は繰り返しなされてきたが、この引用部も、基本的にはその繰り返しに過ぎない。だが、詩と同列なものとして革命を持ち出したことには注意を要する。

歴史が動く瞬間には、抽象的な命題などは意味を持たない。具体的な行動や暴力が歴史を動かすのである。もちろん、たとえば王を斬首する場合、斬首という行動の背景には、「この王の政治理念は間違っているから殺すべきだ」などの命題がある。だが、行動は命題を超えたところにある。命題から行動に至るまでは、意志と肉体を介さなければならないからである。革命もまた、意志と肉体の側の行為であり、命題の領域の外側にあるものである。

詩と革命の共通点は、まずは、どちらも命題の領域の外側にあるということだと思う。詩は命題で捉えきれない対象をとらえようとし、革命は命題の領域の外側にある意志的身体的行為である。だがそれだけではない。

私が語るとき、私は宙に浮いて詩の言葉を発している語る唇、人格を持たないひとつの口であり、その口は単にその言葉を発するためだけのもので、・・・



天沢は、詩作の身体性にも注意を払っているのである。この部分は二通りに解釈できる。

まず、詩作は通常思われている以上に身体的であるということを主張していると解することができる。現代の詩人はワープロで詩を書くと思うが、その際、パソコンの前に座らなければいけないし、眼球を動かさなければいけないし、何よりもキーボードを叩かなければいけない。ただ頭の中で考えていただけでは、詩は具現化しないのである。

次に、詩作は論理的に積み立てられるものではなく、あたかも精神を解さないかのように自動的に、思いつきで行われることが多いということを主張していると解することもできる。

いずれにせよ、詩作は通常思われているよりずっと身体的であり、それゆえ、意志的身体的行為である革命とも共通性を持ってくるわけである。

テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

ephemeris
 最近やる気が出ない。今日もやる気が出ず、クラシックを延々と聴いたりネットに接続したりしていた。常に高いモチベーションと高い集中力を保っていることは難しい。

 レイコフの「詩と認知」を読んでいる。これはかなりの良書だ。隠喩の構造を丁寧に分析している。なかなかおもしろい。

 mixiで現代詩文庫のコミュを立ち上げた関係上、現代詩文庫をたくさん読まなければいけないと思っている。少なくとも話題に上がった巻は図書館から借りてこよう。

 ピアノ協奏曲っていい。パイプオルガンもいい。クラシックは最高だ。
新日曜美術館
 今日はサルバドール・ダリだった。ダリの10歳の時の印象派風の作品を見たが、天才的に上手だった。のちのシュルレアリスム作品は、確かなデッサン力を基礎に成立していたわけである。写実的表現力が基礎にあったからこそ、前衛的な作品にも説得力を持たせることができたのだ。

 ヒステリーの発作に悩まされるダリを支え、マネージャーのような役割を果たしたのが妻のガラである。ダリはこのガラという女性を終生愛し続ける。ガラは歳をとると男遊びにふけるようになるが、それでもダリは彼女を神聖化した絵を描き続けた。ダリのけなげさには心を打たれる。

 「固執の記憶」は大傑作だと思う。例の、時計がふやけているやつである。現実の可塑性や、精神のグロテスクさがうまく表れていると思う。しかも、可塑的なのは時計すなわち時間である。時間はいわば世界の、諸事象の担体でありそれらを運ぶものである。それが可塑的であるとはどういうことか。

 担体はまた人間の認識の形式である。それが危機にさらされているのだ。つまり、人間性の本質的な部分(認識の形式)の動揺というものが表されていると読むことも可能だ。もちろん深読みだけれど。

テーマ:美術鑑賞日記 - ジャンル:学問・文化・芸術

公共の福祉論
公共の福祉による人権制約について、いくつか説がある。

<外在的制約説>
 人権の一般条項である12条・13条を根拠に、すべての人権が「公共の福祉」によって制約される。22条1項(居住・移転・職業選択の自由)29条2項(財産権の内容の法定)における「公共の福祉」は意味を持たない。
 明治憲法における「法律の留保」のついた人権保障と同じになるのではないかとの批判がある。

<内在・外在二元的制約説>
 12条・13条を訓示規定と見なし、「公共の福祉」により外在的に制約されるのは、22条1項、29条2項を含む経済的自由権と社会権だけだとして、それ以外の自由権は権利が社会的であることに内在する制約に服するにとどまるとする。
 13条を訓示規定とすると、新しい人権の根拠がなくなるという批判、また、知る権利のように自由権的性格と社会権的性格を併せ持つ権利はどのような制約に服するかわからなくなるという批判がある。

<一元的内在制約説>
 「公共の福祉」は人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理であり、すべての人権に論理必然的に内在すると考え、自由権相互の矛盾・衝突を調整する時には必要最小限の制約のみを認め、社会権を保障するために自由権を規制する場合には必要な限度での規制を認める。
 「必要最小限」という基準は不明確であるとの批判あり。


私見によれば、公共の福祉の実質的な意味合いは一元的内在制約説に求め、その法文上の根拠は12条・13条に求める、すなわち一元的外在制約説の発想をいただくべきである。

テーマ:法律 - ジャンル:学問・文化・芸術

象徴的相互作用論
 個々の行為者が、どのように行動し、他者と相互作用し、社会に順応するのかを分析し、そのような個人の社会的行動が社会的構造を生み出すと考える立場を、社会的行為論という。

 社会的行為論の視点は、象徴的相互作用論に引き継がれた。象徴的相互作用論は、人間は豊富な象徴によって構成された世界の中におり、人々が互いに象徴を交換し合うことで社会的構造が出来上がってくると考える。象徴とは、例えば言葉であるが、身振りなどの非言語的コミュニケーション形態もまた象徴である。

 だが、象徴的相互作用論は、社会的構造が個人の行為を束縛するという逆方向の側面を無視していると批判を受けている。


社会的事実と個々の社会的行為が、存在論的性格を異にするという考えには基本的に賛成である。だが、社会的事実の成立の基盤が社会的行為であることは否定できない。鉄球と鉄原子は存在性格を異にするが、鉄球が鉄原子により構成されていることは否定できないのである。

テーマ:勉強 - ジャンル:学問・文化・芸術

ephemeris
 天沢退二郎の詩論を分析・批判して自分なりの詩論を書こうと思っていたのだがやめた。そんなことをするのなら哲学書を解釈してた方がずっとよさそうだ。どうも詩人の詩論は肌に合わない。困ったものだ。

 「泉鏡花集成1」は読むのをやめた。私には合わないようだ。かわりに小林秀雄の初期の小説を読み始めたが、これはかなり良い。彼は小説家としてもやっていけたのではないだろうかと思ってしまった。


藍露さんと青野さんからバトン。

■Q1今やりたいこと

とにかく哲学の本をたくさん読む。
現代詩文庫を読破する。
ドイツ語とラテン語をきわめる。

でも忙しくてやってる暇がないです。

■Q2今欲しいもの

哲学書をいろいろと
高いIQ
修士号と博士号

■Q3現実的に考えて今買っていい物

「ヘーゲル−理性と現実」
と書きながら、ついついアマゾンで注文しちゃいました(笑
  
■Q4現実的に考えてほしいし買えるけど買ってない物

「続粕谷栄市詩集」
オリヴィア・ニュートン・ジョンのCD
エアロスミスのCD
美術出版社の日本美術、東洋美術に関する本
  
■Q5今欲しいもので高くて買えない物

「神学大全」の邦訳書全巻、とラテン語原典
だが手に入れてもとても読みきれない(笑

■Q6タダで手に入れたいもの

Stichの「Innate Ideas」
中古しかないのだけれど、それが高い

■Q7恋人からもらいたいもの

恋人がいたとしたら、大学院の学費
 
■Q8恋人にあげるとしたら

相手によるから一概に言えません。

間接正犯の諸態様
(1)故意のない者の行為の利用
A 事情を知らない被利用者の無過失の行為を利用する場合
B 被利用者の過失行為を利用する場合
 被利用者には過失犯が成立
C 被利用者が、利用者の実現しようとした構成要件以外の構成要件の故意がある場合
 器物損壊の故意で殺人を実現するような場合

(2)「目的なき故意ある道具」の利用

(3)「身分なき故意ある道具」の利用
 非身分者を道具として思い通りに利用する時にのみ間接正犯が成立。被利用者は幇助犯となる。

(4)違法性が阻却される行為の利用
 他人の正当防衛・緊急避難・政党業務行為などを利用。

(5)「故意ある幇助的道具」の利用
 使者として情を知っていながら賄賂を相手方に届けた者など。被利用者が一方的に利用されている場合には、間接正犯が成立。被利用者には幇助犯が成立。


利用者が故意のある者を利用するとき、被利用者には規範的障害があるのだから、間接正犯は成立しないようにも思われる。だが、そのような場合、自ら手を下していない利用者にただの正犯を認めることには問題があるのかもしれない。利用者が被利用者を一方的に利用して犯罪を実現する場合、それはただの正犯ではなく間接正犯として捉えられるべきであり、被利用者に故意がある場合は共犯として処罰すればよいことになる。

テーマ:法律 - ジャンル:学問・文化・芸術

新日曜美術館
 今日は今井繁三郎だった。今井は油絵画家で、初めの頃は写実的な絵を描いていたが、途中から抽象が混ざったり、構図が非現実的になったりし始めた。月山もよく描いたようだ。色調は明るかったり暗かったり様々だ。妻が死んでから死を思わせるような作品を書くが、最晩年はひ孫の描いた絵を参考にしながら子供の絵ような作品を描いた。

 若い頃は基本に忠実に写実的で、素人目にも上手だと思えるような絵を描いているのだが、歳をとるに従って写実性を捨てて、個性的な画風を築き上げるという画家は多いようだ。

 これは画家の怠慢なのだろうか。地位や名誉を得てしまうと、手抜きの作品も許されてしまうということなのだろうか。

 おそらく怠慢ではないような気がする。若い頃は、画壇に認めてもらおうと、必死になって伝統的な技術を習得しようとする。その頃は写実的なものを描いて、デッサン力をアピールする。そして、ある程度認められるようになると、ようやく自分の描きたいように描けるようになるという訳だ。怠慢で写実性を捨てるのではなく、自分の個性を発揮させるために写実性を捨てるのだと思う。

 しかし子供の絵を模範にするというのは斬新なアイディアだ。これは成功と失敗が紙一重だと思う。そんなもの子供に描かせればいいじゃないか、と批判されても仕方がない。だが、芸術には様々な表現形式があるわけで、そのひとつの形式として「子供の絵」というのがあっても良いと思う。「子供の絵」という形式の持つ魅力を最大限に発揮させることができれば、それで成功したことになるのではないだろうか。

テーマ:美術鑑賞日記 - ジャンル:学問・文化・芸術

犯罪者
 今日は夜になって情緒不安定になった。珍しいことだ。ある人に自分の昔のことを話したので、そのせいか昔のことを思い出してしまったのだ。

 汚れてしまうというのは悲しいことだ。今日は悲しくて泣けてしまった。世の犯罪者のために泣いた。といっても、生まれながらに血も涙もないような人間のためではない。境遇に恵まれず、どん底を味わったために世を憎み人を憎むようになった犯罪者たちの孤独と苦悩のために泣いた。

 うむ、暗くなってしまったので少し明るい話題。私はヤクザ映画が好きだ。実際のヤクザがそれほどスジの通ったことばかりやっているとはとても思えないが、映画の善いほうのヤクザには大変好感が持てる。

 親兄弟の仇を討つために、あるいは名誉を守るために体を張って戦うというのはえらい。法秩序のもとではそのような行為は禁じられているが、加害者に対して国が制裁するよりも、被害者の側が自ら制裁を下した方が被害者の心は癒されると思う。見ていても気持ちがいい。

 暴力をふるったり啖呵をきったりする様も、見ていて気持ちがいい。現実社会で暴力を振るったら、やれ暴行罪だ傷害罪だと面倒なことになるが。学校でそんなことをしたら、停学を食らったりしかねない。

 ヤクザは、刑事制裁が怖くて我々がしたくてもできないようなことを、代わりにやってくれる。我々は、そんなヤクザたちに同一化することで、社会からのつかの間の、そして偽物の解放を味わうことができる。
ephemeris
 LECの刑事訴訟法の入門講座がやっと終わったので一息ついている。午前中はこのままのんびりしていよう。
 経済学の上級講座のビデオもまだ16回分残っている。だがこれをやっていると民法や労働法、国際法、商法に多くの時間が割けなくなってしまう。どうすべきか迷ってしまう。
 公務員試験は本気で受けるわけじゃないし最終合格しても官庁訪問には行かないつもりなのだが、やはりある程度気合を入れて準備したい。

 最近少し精神的な余裕がなくなり始めている。ブログで教科書のまとめを書いたりする余裕もない。困ったなあ。公務員試験は本命じゃないのだから、もっと肩の力を抜いて取り組みたい。

 法科大学院の適正試験の対策本をある程度読んだが、それほどたいしたことがなさそうで安心している。国家一種の教養試験の方が難しいんじゃない?

 しかし、詩人の書く詩論というのは困ったものである。天沢退二郎の詩論を少し読んでみたが、論文じゃなくて詩になってしまっている。比喩とか使われても困ります、いやマジで。よほどの例外的な場合を除いて、論文においては比喩は使ってはならないはずだ。
 確かに比喩でないと表せないこともあるのかもしれないが、比喩を使うと余分な意味もくっついてきてしまい、比喩されるものの実体がよく分からなくなるという弊害が伴う。
 たとえば美しい女性を「花」で喩えると、女性にはないが花にはある属性というものが、女性自身の把捉を困難にする。花であるからにはいくつもの花弁が特定の空間的配置を取らなければならないが、いったい女性の何が花弁や空間的配置に対応するのだろう。また、花の香りと女性の匂いも別物のはず。花のがくや茎に対応する女性の属性とはいったいなんだろう。
 花と女性は「美しい」という点では共通しているが、ほかの属性はそれほど共通していないのである。
 比喩でしか言い表せないものを比喩で捉えるというのは、初めから把捉できないものとして認識を諦めるよりは良いことだと思うが、比喩によって真性な認識ができるとは思えないのだ。
名取洋之助と日本工房
 福島県立美術館で「名取洋之助と日本工房」展を見てきた。名取洋之助はドイツで写真を学び、日本で「日本工房」を立ち上げ、グラフ雑誌「NIPPON」を刊行した。

 NIPPONは、写真や絵画をふんだんに使い、またセンスを感じさせるレイアウトで、当時の印刷技術を最大限に駆使したことがうかがわれる。日本の文化を欧米に伝えるための雑誌だったようだ。

 木村伊兵衛に関するビデオが放映されていた。木村もまた日本工房に関わった一人だ。木村は民衆の生活を撮っていて、その映像をめぐる物語や、撮られた人の内面まで表現していたようだ。写真は映像だけを写すのではないということに改めて気づかされた。場合によっては、写真家の主義などが反映されているかもしれない。

 美術館にはかなりの数の美術書が置いてあった。暇な時に、美術書を見たり読んだりするのに美術館を利用してもいいかもしれない。

テーマ:美術館・博物館 展示めぐり。 - ジャンル:学問・文化・芸術

ephemeris
 「イーグルス・ヌードル」というものを食べた。日清食品が楽天イーグルスにあやかって東北限定で発売したカップラーメンだ。
 まずくはなかったが、ラーメンに鶏のから揚げというのはいただけない。ラーメンには油ものはあわないと思う。個人的には、から揚げなんかいいから、もっとキャベツを入れろと言いたいところだ。ラーメンは野菜が多い方が絶対おいしいと思う。

 「現代思想の源流」を図書館から借りてきたので少しずつ読んでいる。マルクス、フロイト、フッサール、ニーチェについての本である。なかなか面白い。この程度の刺激がちょうどいい。難しすぎても簡単すぎてもつまらないので。
 ジョナサン・カラー「ソシュール」読み始める。大変面白い。現代思想をやるならまずはソシュールから始めなければならない。
 「泉鏡花集成1」を読んでいる。某番組の鏡花本特集に触発されたのだ。筋のつくりなど大衆向けで少々安っぽい感じがする。あまり「文学」という感じがしない。

 一応今年の公務員試験も受けるつもりなのだが、勉強が間に合いそうにない。刑訴をやっていたのがまずかったのかもしれない。刑訴は公務員試験には出ないからね。早く民法に取り掛からないといけない。しかし内田民法は面白いね。読んでいて特に面白いと感じた法律書は、いまのところ内田民法だけである。
新日曜美術館
 今日は西山秀雄だった。日本画家でありながら、表現主義を思わせるような大胆な色使いで桜島などを描いた。

 解説によれば、西山は、京都の穏やかな風光にはない荒削りの生命感を桜島に求めていたようだ。人間が初めて作った色は赤だったそうで、赤という色は人間を最も強くひきつけるのかもしれない。西山は桜島を描くのに、大胆に、溢れんばかりに赤を使用した。

 帝展で特選を受賞した初期の作品はモダンな港の風景を繊細に描いたもので、旧来の日本画の花鳥風月の伝統を破るものとして高く評価されたとのことだ。その頃から、彼には日本画の常識を破って自分なりの画風を築きたいという意欲があったのかもしれない。

 桜島の絵には形態においても、色使いにおいても、写実性が乏しい。写実主義を捨てたときに、いったい作品は何を獲得するのだろうか?鑑賞者は、細部の細かい線へのこだわりを捨て、全体の配置や色の対比などにいっそう注目するようになるのだと思う。作品は、細かい線ではなく、色同士のせめぎあいや、モチーフの空間的配置をより強く主張するようになる。西山の場合、そのことによって、活火山の生命力やそれに刺激される人間の感情を前面に出すことに成功していたのだと思う。

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天沢退二郎
 現代詩文庫「天沢退二郎詩集」を読んでいる。天沢は初期の詩の方がが抜群に良い。詩集「道道」と、詩集「朝の河」の前半の頃がよい。それ以降になると、語の絡め方に無理が出始め、隠喩がことごとく失敗し始める。下手にレトリックを使わず、初めの頃の詩風を保っていたほうが絶対良かったと思う。

こうしてはからずもはじまったぼくたちの旅をぼくは引き剥がしそれを鞭にして制服の市街の地平線を叩こう
 −−「夜の旅」より


この手の詩行にはうんざりする。へたくそとしか言いようがない。語やイメージを通常の用法から引き離すというのは詩において重要なレトリックだが、それも度が過ぎると失敗する。天沢の後期の作品はほとんどが失敗例だ。

 だが初期の作品はたいへん優れている。「道道」の頃の作品では、天沢の詩人としての感性が遺憾なく発揮されている。

遠い空のヘリではかすかに
高くハモンドオルガンが鳴る
 −−「ぼくの春」より


谷川俊太郎に似ていて、あまり隠喩などを使わない素直で平明な作品が多いのだが、読者を考え込ませ解釈の楽しみにいざなうような深さがある。
 また、どことなく感傷的な、それでいて全然いやみのない随想が描かれている作品もある。

  あのほんとうの僕の棲処から何故僕は
  いつのまにか逐われてしまったのか
 −−「座」より



 「朝の河」の前半は天沢の絶頂期だったのではないだろうか。私は特に「RE'VOLUTION」に感銘を受けた。(「E'」はウ・アクサン・テーギュ)

紙屑の走る街角でいざりの老人は
とつぜんに理解する
港市が永遠に彼の呪文を脱れたことを
 −−「RE'VOLUTION」より


全文を引用しても良いのだが、打ち込むのに疲れるのでハイライトの部分だけを抜書きした。緊迫感のみなぎる描写のなかで、「男」「女理容師」は真理を理解する。そのことにより、老人の呪文は解かれてしまうのだ。人が迷妄から逃れ真実に達する時の緊張や興奮をうまく描き出している。この詩篇はいちおしなので、「天沢退二郎詩集」を読むことがあったら注目して読んでみてください。

テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

インターネット
 ストレス解消にインターネットを利用している。私は集中力が長持ちしないので、ある程度教科書を読むともういっぱいいっぱいになってしまい、休息が必要になる。そんなとき、詩集を読んだり、音楽を聴いたり、マンガを読んだりするのだが、インターネットをやることも多い。

 人と交流するためにもインターネットを利用している。実際問題として故郷に戻っている友人というのはほとんどいなくて、基本的に孤独な日々を過ごしているので、ネットの知り合いというのは私にとっては大切なのだ。
 また、仮に友人と会う機会があったとしても、私と同じ趣味を持っている友人は余りいない。ネット上では、同じ趣味や興味を持っている人を選ぶことができ、掲示板やメールなどでコミュニケーションをとることができる。これは大きなメリットである。趣味の話や、自分が興味のある領域についての話は楽しいので。もちろん雑談も楽しいけれど。

 もちろん、物足りなくはある。社会学の用語で「接近強迫観念」という言葉があるのだが、これは、人間は、対面のコミュニケーションに対して、強迫観念と呼んでいいほどの強い欲求がある、ということを表している。実際、首脳会談など重要なコミュニケーションはたいてい対面形式で行われている。
 また、ネット上だと敬語の使用が普通だから、堅苦しい感じもある。だが、歳の離れた人との対話は日常生活でも敬語なわけだし、私はそれほど気にならない。

 しかし、メールをどこでやめるかは難しいと感じる。相手が返信を期待しているときにやめてしまうのはまずいし、相手がもうそろそろ終わりにしようと思っているのに、長々と返信してしまうのもまずい。私自身は、メールに返信が来なかったり、書き込みにレスがつかなかったりすることには慣れているので余り気にしないのだが、やはり相手の望むとおりに振舞ってあげたい。だが、メールは文章のみで相手の態度はほとんど分からないから、相手が楽しんでいるのか疲れ始めているのか読み取るのは案外難しい。勘に頼るしかない。
県立図書館
 今日地元の図書館に行ってきた。

 講談社の「現代思想の冒険者たち」シリーズ(これは現在一部改版されたものをのぞいて入手困難になっている)がなんと全巻そろっていた!!ネット上の古本屋で「クリステヴァ」などを必死になって探し求めて結局見つからなかったのが馬鹿みたいだ。初めから図書館に行ってれば良かったんですね。

 現代詩文庫もそれなりにそろっていた。だがさすがに番号の古いものは年季が入っていて、よれよれで汚れている。番号が飛び飛びになっている。だが最近のものはきれいでほぼ全巻そろっていた。とりあえずよれよれの天沢退二郎詩集を借りてきた。まずは図書館で借りてみて、本当に必要だったら買えばいい。

 図書館って本当に便利だ。実家に戻ってからもうすぐ2年になるが、何故今まで図書館の利用を考えなかったのだろう。
大人らしく
 私が中学生の時、悩みに関するアンケートがあった。当時私は何一つ悩みのない幸せ者だった。アンケートがばかばかしかったので、ふざけて一番ネガティブな選択肢をことごとく選んだ。「社会は間違っている」とか「死にたい」とか、その手のものをことごとく選んでやった。

 数日後、私は担任の教師に、放課後残るようにいわれた。理科準備室の中で、「君はかなりの重症だ。悩みがあるのなら何でも言いなさい。」と言われた。余りにも真剣な調子だったので、私はふざけてやりましたとも言えず、対応に困り、適当なことを答えたように思う。

 私は中学生なりにも、これは一本とられたと思った。担任教師はわざと信じたふりをしていたのだ。叱り付けることも可能だったと思うが、中学生の心をなるべく傷つけたくなかったのだろう。

 その一事をもって、いまだに私はその教師を尊敬している。トラブルや問題に対する大人の対応の仕方というものは、そういうものなのだろうと思う。

 トラブルに巻き込まれたとき、それが深刻なものなら真剣に応戦しなければなるまい。場合によっては訴訟を提起することになるかもしれない。だが、たいしたことのないトラブルに対しては、大人らしくふるまうべきだと思う。もう25なんだし。

 某所でちょっとした挑発を受けた。大人らしい対応をしたつもりだ。
財の分類
・排除可能性:財の消費を妨げられるかどうか。消費するためにお金を払わなければいけないかどうか。
・競合性:他人の消費を排除できるかどうか。

<私的財>
=排除可能性あり、競合性あり
店で売っている食料品など

<公共財>
=排除可能性なし、競合性なし
道路など

共有資源
=排除可能性なし、競合性あり
入会地の木材など

自然独占を生む財
=排除可能性あり、競合性なし
電話サービスなど

テーマ:勉強 - ジャンル:学問・文化・芸術

新日曜美術館
 今日は、美術品がコレクターの間を転々としていく過程をいくつかの作品について追っていた。野々村仁清の国宝「色絵藤花文茶壷」、岡田三郎助の「あやめの衣」、前田青邨(せいそん)の「洞窟の頼朝」などの遍歴を追っていた。

 所有権とは、法学的には、物を使用・収益・処分する権利のことを言う。だが、価値の高い芸術作品を所有する目的は、使用でも収益でも処分でもないだろう。作品を排他的に、自分の占有下に置くことそれ自体に、コレクターは大きな喜びを感じるのだと思う。単純な所有そのものの喜びである。

 東京都写真美術館で、「写真展・岡本太郎の視線」をやっているそうだ。縄文土器やなまはげ、沖縄の老女などが被写体になっているらしい。伝統の持つエネルギーや老女の持つ美など、言われて初めて気がついた。さすが岡本は目の付け所が違う。

 写真とは、機能的に、あるいは存在論的に拡張された「見ること」だと思う。人間が注視できる範囲というものは限られているから、人間の視覚というものは空間的に限られているし、正確に記憶されないから精度の面でも写真に劣る。また、視覚が長く持続しないのに対し、写真は同じ映像を長くとどめている。視覚的な記憶を相手に伝えるのは難しいが、写真を撮っておけば簡単に相手に伝えることができる。

テーマ:美術鑑賞日記 - ジャンル:学問・文化・芸術

葛藤理論
 社会内部での構造の重要性を強調するが、機能主義者のように社会的合意を重視したりはせず、社会における分裂の重要性に光を当てる。

 社会はみずからの利害関心を追及する個々別々の集団から構成されていて、そこに闘争の潜在的可能性があるとする。

 マルクスの影響の下で階級対立を強調する論者が多いが、階級対立に限らず、権威を持つものと持たざるもの、支配者と被支配者のあいだの緊張関係に目を向ける。


人間関係には友愛もあれば敵対もある。友愛や結合のみに光を当てるのは、現実の一面しか見ていないことになる。敵対というものが社会の次元でどのように現れるのかを分析するのは、現実に敵対関係がある以上、絶対必要なことだろう。

テーマ:勉強 - ジャンル:学問・文化・芸術

労働三権
<団結権>
・一時的な団結体(争議団)の結成・運営権を含む。
・団結権に基づく妨害排除請求の可否が問題となる。使用者の支配介入に対して、団結権に基づいて妨害排除・予防請求できるか。憲法の抽象的規定以外に実定法上手がかりとなる規定がないため、私法上の権利としての根拠付け・範囲の確定は困難である。

<団体行動権>
・「争議権」と「組合活動権」を保障。
・争議権は、労使の対等性の確保、交渉の行き詰まり打開のためのもの。
・多数説は、争議権を、業務阻害権(使用者の業務を阻害する労働者の諸々の行動を全般的に保障する権利)ととらえる。
・団体交渉権・争議権で免責されない団体行動は、一定範囲で組合活動権によって保障される。


私法関係は、事実上非対等な当事者間でも形成される。そのような場合に生ずるであろう弱者の抑圧などを回避するため、国家は立法によって労働関係に介入した。民事免責・刑事免責は法秩序の中の重大な例外である。そこまでして、国家は労働者の地位を高めようとしているのである。逆に言えば、労働者はそれだけ放っておけば抑圧される危険性が高いということだ。

テーマ:法律 - ジャンル:学問・文化・芸術

憲法27条

憲法27条
(1)すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
(2)賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
(3)児童は、これを酷使してはならない。


<1項:勤労の権利・義務>
・完全雇用を国政の重要目標として宣言した規定。そのために労働市場を整備する義務が国家にはある。(権利)
・国は働かない者の面倒は見ないという方針。(義務)

<3項:児童の酷使の禁止>
・労働保護法は児童の保護から出発した。
・労基法は「第6章 年少者」として、56条から64条までで、入職年齢・労働時間・安全衛生に関する保護規定を置いている。
・児童福祉法は児童にさせてはならない行為を列挙している。

テーマ:法律 - ジャンル:学問・文化・芸術

私法関係と基本権
基本的人権の私人間効力には諸説ある。

<非適用説>
 基本権の対国家性から、私人間には憲法の適用はないとする。

<直接適用説>
 基本権を、垂直・水平の両方向の作用を持つ権利ととらえ、私人間にも憲法がそのまま適用されるとする。

<国家類似説>
 巨大な社会的権力を行使する団体や、国家と親密な関係にある団体の地位を、国家に準ずるものと擬制して、国家類似団体と私人間にも憲法を適用しようとする。

<帰責の理論、司法的執行の理論>
 私的人権侵害の背後には、法がこれを許容し、裁判所がこれを貫徹したという国家の消極的関与があるとし、私人の加害行為を二次的に国家の侵害として再構成する。

<間接適用説>
 私法の一般規定の解釈に際して憲法の価値判断を読み込むことにより憲法と私法の評価を整合させる。ドイツでは照射効(基本権と言う陽光に照らして私法規定を解釈)と呼ぶ。


実際に人権侵害が問題になるのは、社会的権力による人権侵害であろう。個人がいくら性別で人を差別したからといって、差別された側が大きな不利益を被ることは余りないが、大企業が雇用に際して性別で差別したとなると、差別された側は大きな不利益を被ることになる。
こういった場合に、社会的に弱い立場にある私人を救済しようというのが、憲法の私人間適用の問題であるとすれば、国家類似説によって解決するのが一番素直なように思える。
ただし、この説ではどの規模の社会的権力を国家と類似した地位に擬制したら良いかの基準が微妙であり、裁判官の恣意にゆだねられかねない。
それを考えるとやはり間接適用説は魅力的である。この説によれば、どのような私人間にも憲法を適用することができるという意味で、人権侵害からの救済が幅広く行えるというメリットもある。

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4ヶ月
 ブログを始めてからだいたい4ヶ月だ。閲覧してくださる方々には感謝の念がたえない。

 基本的には、それぞれの分野の教科書を読んで、その内容を定着させるために文章としてまとめることを、ブログを書く目的としている。

 実際にはそれに限らず書きたいことを書きたいように書いているわけだが。だから、いろんな記事がごちゃ混ぜになって、まるで統一感がとれていないのが実態だ。だがこれはこれでいいのではないかと思っている。

 記事としてまとめることで、多くの知識が身についた。まとめるべき内容はいくらでもあるので、倦まず弛まず文章化していきたい。それと、できるだけ自分の意見も添えるようにしたい。著作権の問題もあるしね。

 詩人や詩集の紹介は、詩集を読み終わったときにはなるべく欠かさず書くようにしたい。新日曜美術館の記事は、しばらくは毎週書くつもりでいる。音楽や映画についても、これからいろいろと語っていきたいと思っている。

 それでは、これからもよろしくお願いします。