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Author:sk
28歳。男。たまに詩を書いたりもする(筆名「広田修」)。哲学が好き。
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Albatros BLOG
日々の雑記。現代詩の話や哲学の話。文学や音楽、美術、芸術一般の話。ただただ書き捨てていくだけ。
読書日記
 「純粋理性批判」。これはかなり面白い。もっと早く読み始めるべきだった。今まで恐れをなして二次文献ばかり読んでいたのがばからしく思われる。やっぱり原典が一番面白いということを改めて確認。

 加藤茂ら「芸術の記号論」。この本は記号論への入門書ではない。初めての人は池上嘉彦の「記号論への招待」がベストである。関係があればすべて記号になってしまうのではないかとすら思われる。意識ですら記号なのだから(意識内容を指し示す機能こそが意識であり、それは記号的な機能なのである)。
 そして、超越論的統覚すなわち"Ich denke"が思考するすべての意識内容は、我々自身の記号でもある。記号恐るべし。これからどんな展開が待ち受けているのか楽しみだ。

 「戦後60年<詩と批評>総展望」。案外さくさく読めてしまう。読みづらいものもあるのだが。読みづらいものや感動的なものはブログで取り上げてコメントするつもり。黒田三郎は読みづらかった。

 「美学辞典」。かなり密度が濃い。読み返す必要がある。美と芸術との乖離や美の包越性、美が第三性質であることなど、興味深い考察が並ぶ。腰をすえてじっくり読まなければならない。
「民衆と詩人」
 黒田三郎の詩論「民衆と詩人」の内容を検討する。

(1)詩は民衆が生産し、民衆が消費する。

(2)詩人は民衆の一人であるが、孤独であり、孤独の中で詩が生まれる。

(3)作者名によって詩の価値は変動しない。作者が無名であるほど、詩は民衆の中に迎え入れられやすい。

(4)一方で、詩人は名を示すことにより、責任の所在を明らかにし、かけがえのない自分そのものを賭ける。

(5)孤独な哲学者は支配者を怒らせる。詩人も似た境遇になることがある。

(6)詩人は民衆が胸深くしまっていて外に出さないものを民衆に代わって表現する。

(7)「民衆」とは、支配的世論を形成する「大多数」でもなければ、「少数」でもない。


 要するに、詩人は強権や支配的世論に与する者でもなければ、少数の芸術家たちの社会のなかに閉じこもる者でもないということだ。

 詩人は民衆が言いたくても言わないことを、代わりに言う人たちであるということになる。それは社会的な抑圧に抵抗することになりかねず、支配者を怒らせることになるかも知れぬ。だが、自分の名にかけて、責任を持ちながらあえて発言するのである。


 この文章が発表されたのは1950年である。当時は詩が政治の文脈で語られてもいたことをうかがわせる。政治も詩人にとっては関心事だったわけで、詩人にも政治的な役割が期待されていたわけだ。

テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

Cleopatra Testing Poisons on Condemned Prisoners
caba01.jpg

カバネル(Alexander Cabanel, 1823-89)の作品。

 クレオパトラの周辺には、暖色系の美しさがあり、そこに衣服の清冽な青や瑞々しい黒が走る。だが、二人の美しい女性は罪人の苦しむ姿を見ることで毒の効き目を確かめているのである。

 クレオパトラのぞっとするような残忍さを表現するために、画家は彼女をとりわけ美しく描かなければならなかったのである。美しさと残忍さは対立しない。むしろ美しさと残忍さは親和的である。美しくあるということは、きわめて攻撃的であるということだ。

 左側の明るい場所に規則的に立ち並ぶ円柱が目を引く。この機械的な秩序は、罪人によって毒の効き目を確かめることの機械性を暗示しているかのようだ。つまり、手順があらかじめ決まっており、それに従って毒のテストが機械的に行われているのである。

 そしてまた、毒のテストを執り行うクレオパトラもまた、機械的で冷徹な精神を備えているかのように思われてくるのだ。機械性−美しさ−残忍さ、これらが三位一体となって、クレオパトラを特徴付けているかのようだ。

テーマ:絵画 - ジャンル:学問・文化・芸術

journal
 なぜか回線がつながったので、また不通になる前に書いておく。

 手帖を見たが、「生活」は佳作にすらなってなかった。初めに感じたように、やはり今期は私の居場所はないようだ。いくら投稿しても無駄な気がする。自分としてはそこそこのできだったのだが。選者の好みと自分の好みが合わないと、正直いらだつ。

 プロコフィエフの音楽は畸形の音楽である。しばしば私は恐怖を感じる。彼の音楽においては、恐怖が許されているのである。対称性を欠いた焼き物のように、癖になる魅力がある。

 ミショーは天才である。ツェランは多少作品が地に付いていない感じがする。メタファーの使いすぎだろうか。だが魅力的だ。日本の現代詩が、この二人から受けた影響は大きいのではないだろうか。
不通になります
 完全にYahooではインターネットができなくなりました。解約しました。手続きなどで、8月中旬までネットにつなげません。ホームページのアドレスが変わりますし、メアドも変わります。メルマガもそれまでは配信できません。ネットカフェではFDDが使用できるようですが、面倒なのでやりません。

 ここのところネットに依存気味だったので、少しネットのない生活もよいかなと思っています。それでは、8月中旬ごろにまた。たまにネットカフェで接続するかもしれませんが。
回線不調
 回線が不調である。どうやらNTTから自宅までの間に何か妨害するものがあるらしい。だからしばらくネットにあまりつなげません。今はネットカフェで書いてますが、1時間500円は高い・・・。メールは読めませんので、御用事のある方はmixiか現代詩フォーラム、ホームページの掲示板、ブログのコメント欄などで連絡してください。

 Yahooが悪いわけではないらしいので、会社を変えても恐らく事態の改善はないのではないかと思われる。困ったなあ。ストレス解消ができないじゃないか。どうにかならないものかねえ。
図書館に行った
 「清岡卓行詩集」「クリステヴァ」を返却。
 清岡は小説家の詩を書く。掌編小説のようなものも普通に載っていた。小説として読んだ。「指の先の角砂糖」は彼の朔太郎論だが、これはきわめて秀逸である。今まで読んできた批評の中では一番すぐれていると感じた。朔太郎における手のモチーフの特殊性を、他の詩人の手の扱い方と比較して論じている。このような批評を書かねばと思った。
 「クリステヴァ」は結局半分しか読めなかった。そのうちまた借りてこようと思う。

 小沢書店という出版社が、「双書・20世紀の詩人」というものを出していることをはじめて知った。そこから「アンリ・ミショー詩集」「パウル・ツェラン詩集」を借りてきた。ミショーは粕谷に大きな影響を与えた芸術家だ。少し読んだが散文詩が面白い。
 さらに、ブランショの「焔の文学」という評論集を借りてきた。400ページ以上あるから読みきれるかどうか分からない。

 そんなわけで今回は現代詩文庫も「現代思想の冒険者たち」も借りなかった。

 4週間に一度やってくるこの「図書館デー」をいつも楽しみにしている。
コメントが付いた
melma!で私の発行しているメルマガにコメントが付いた。

「哲学の道」とあるので、どんな哲学書を読み、ドンナ哲学を展開しいているのかと、期待しましたが、落胆です。
心理学と哲学の境界は曖昧です。少なくてもフロイトと哲学は無縁ではありません。彼を哲学の領域から論じた学派、或いは理論は数多あります。
その意味で、ここのメルマガ登録された「哲学」のカテゴリーの中では、一番まじめでまともです。

だが、哲学を論じる事と、哲学が理論の説明にとどまる事の忸怩たる思い抱き、世の中のあらゆる、非ー哲学的な世界観や価値観を根底から批判しないと・・・な。この哲学のメルマガは、私の哲学観から言えば、すべて批判してもおかしくない内容です。

私は近頃、哲学から避難しています、哲学を大道具のようにして避難する事に些かくたびれたとも言えます。

そこで、下記アドレスで短歌とエッセイに落ち着いて、せっせと書いています。

一度哲学の視点で批判してみてください。
http://blog.mag2.com/m/log/0000183539



一応メールで穏当な返信しておいたが、このコメントには落胆した。

私の書いているメルマガは、大学のゼミで書くレジュメとゼミでする発表をそのまま配信したようなものである。だから、大学で哲学をある程度学んだ人間なら私のやっていることの価値は分かるはずなのだ。

原典を忠実に読むことの重要性。それによって深い理解ガ得られる。また、原典を読むことによって必然的にいろんな疑問が起こってくる。そのような疑問に対して自分の頭で考えて解答を模索していこうという知的営為の重要性。そういうものが、コメントをつけた人にはまるでわかっていないようである。

あと、フロイトの重要性がわかっていない。近代の理性中心主義を根底から覆しかねない彼の思想の破壊力が分かっていない。それがユングやラカン、クリステヴァの思想の基礎になったことも分かっていない。

だいたい、説明文に「哲学の主要著作を読み解き議論する」と書いておいたのに、「世の中のあらゆる、非ー哲学的な世界観や価値観を根底から批判」することを求めるというのもまったくのお門違いである。説明文をよく読みなさい。それに、哲学は非哲学を排斥するような狭量なものではない。非哲学も哲学の格好の材料となる。

「この哲学のメルマガは、私の哲学観から言えば、すべて批判してもおかしくない内容です。」まずあなたの哲学観をより詳しく述べなさい。それが非哲学の排斥だとしたら、あなたの哲学観は間違っているし、私のメルマガはそのような哲学観ではかるべきものではない。

最後に、君のメルマガの宣伝なんかどうでもよろしい。余計な情報は要らないよ。

哲学について該博な知識を持っている人から批判されるのなら真摯に対応しようと思うが、思い上がっているだけの素人にこき下ろされるのは不愉快である。

ああ、せいせいした。
東京・横浜
 21〜23に東京と横浜に行ってきた。Nizzzyさん、守り手さん、伊達風人さんにお会いした。詩を書いている人と直接会うのは初めてだった。趣味の話は楽しい。

 科学哲学の大学院に行っているG君ともいろんな話をしたが、やはり頭の良い人と話すのは楽しい。

 芸大美術館でギリシアのクラシック時代の彫刻を見て、国立博物館で若冲などの日本画を見て、横浜美術館の常設展で現代彫刻などを見た。


 帰りの電車で、17歳ぐらいの女の子が、母親と見られる女性の肩に頭を乗せて寝ていた。私はそこに冷たい悲劇を感じてしまった。私にはその娘が精神薄弱者のように思われたのだ。17にもなって母親の肩に頭をもたれかけさせるのは普通ではない。私はその母子のたどった凄絶な精神の悲劇を、悲しい連帯を想像して、いくぶん感傷的になった。

 ところがしばらくして、私には、その二人が実は全く赤の他人ではないかとも思われた。娘は不用意に他人にもたれかかっているだけであり、中年の女性はそれに対して無関心かつ寛容であるに過ぎないのではないかとも思われた。私の感傷は消えた。娘も健常者のように思われた。

 中年の女性は醜く、疲れた顔をしていたが、それは生活を楽しんでいる者の顔だった。些細な楽しみを些細なものとして穏当に楽しんでいく者の顔だった。私にはその二人が悲劇的な親子にも見え、しばらくすると赤の他人のようにも見えた。その二つの認識が何度か交互にやってきて、そのたびに私は感傷的になったり無関心になったりした。

 結局、二人は正常な親子の会話をすることにより、私の不安定な認識を救った。娘は健常者であり、ただ甘えていただけなのだ。なんともつまらない結末だった。
読書日記
 渡辺公三「レヴィ=ストロース」読了。変形にさらされながらも保たれる構造というものを、神話の種々の異伝のなかに発見する。自然の豊穣な多様性を前にして原始人が展開する野生の思考。自然の分類と人間の個体差を対応付ける。主体を重視するのではなく、主体なき構造を重視する。暇があったら原典に当たってみたい。
 だが、レヴィ=ストロースの神話解釈はかなりこじつけっぽい。しかし、人間の無意識の次元ではどのような連想が行われているか分かったものではない。だから、私には彼の解釈が正しいとも間違っているともいえない。

 西川直子「クリステヴァ」を読んでいるが、具体例がないのでイメージが持ちづらい。クリステヴァ自身は具体例の検討もやっているようだが。

 佐藤信夫「レトリックの記号論」は、レトリックを記号論の視座から体系的に分析した書物ではない。レトリックについてのちょっとした思い付きをいくつも集めてきた本である。期待はずれだったが、考えるきっかけになるような発想がいくつもあり、たいへん刺激的である。

 黒崎政男「カント「純粋理性批判」入門」は、分かりやすくて大変よろしい。だが、それほど内容の多い本ではない。
「バルコニー」
mane06.jpg

エドゥアール・マネ(Edouard Manet, 1832-83)の1868-69年の作品。

 バルコニーは、場としては中間的である。内部と外部の中間であり、また一階と屋根との中間として上部と下部の中間でもある。中間的な場であるから、対立する要素が混ざり合う場でもある。例えば右側の少女は、外気にさらされながらも、部屋の中の闇を背中に感じている。

 バルコニーは中間として諸要素が混ざり合う場、即ち交点であるが、交点であると同時に、あるいは交点であるがゆえに、そこから多方向に射出されるものがある。例えば三人の人物の視線はすべて違う方向を向いている。

 また、この三人は、たまたま交点としてのバルコニーで交わった(同じ時間を共有した)わけであるが、しばらくすれば再びそれぞれ別の時空間を生きることになるだろう。バルコニーの、交点であると同時に放射点でもあるという特性は、登場人物の生によって具現化されているわけである。

 さわやかでありながらよそよそしい緑。衣服の白は、この絵の緑と違和するようで融和している。緑は、部屋の中の黒と衣服の白との対立を、絶妙な色相で調停している。

 三人の人物は、部屋の闇から逃れてきたかのようだ。だが、一方で部屋の闇の魅力から逃れられていず、絶えずその引力を感じているようにも見える。部屋の闇の吸収力が、緑や白の散乱を防ぎ、絵としての安定感を作り出しているようである。

テーマ:絵画 - ジャンル:学問・文化・芸術

journal
 最近モチベーションが低下している。大学院の入試が11月・12月で、まだまだ時間があるのである。余裕を持つのはいいことだと思うが、やる気が出ないのには困った。読むべき分量は沢山あって、休んでいる暇はない。

 適性試験の結果を予備校で判定してもらったが、受けようと思っている大学院に関しては余裕でA判定だった。東大だと辛うじてA判定である。だが東大は受けない。何よりも東京は生活費が高い(家賃がばかにならない)し、正規の教育を受けていないため東大大学院に受かる自信はない。近場の国立の大学院を受けるつもりだ。

 適性試験の結果でだいたい知能が分かるのだろうか。私は怖くて知能を測ったことがないのだが、適性試験では大体上位2パーセントぐらいだったから、それなりの知能はあるのだろう。少し安心した。
東京行き
7月21日の午後から7月23日の午前まで東京にいます。

東京近辺にお住まいの方でお会いできる方はお会いしましょう。

メール等で連絡してください。

メール
sgkkn@ybb.ne.jp

18切符で行きます。
「現代詩とは何か」(2)
内容のまとめはこちら

内容を検討していきます。

(1)詩を詩でないものから独立に切り離して論ずるのは不可能である。

 詩の源泉として例えば「感動的な体験」というものを考えてみる。感動的な体験は、詩ではない日常生活の中にあるものである。

 例えば、「花は何と美しいのだろう」と感動して、それを詩にする場合を考える。その感動は、それ自体として詩的な体験、あるいは端的に詩そのものかもしれない。だが、その体験を得るために、人は、例えば身支度をして散歩に出かけるなどといった日常的・非詩的行為をしなければならない。花に感動するという詩的経験は、「散歩に出る−花を見る−家に帰る」といった日常的な行為連鎖があって初めて成立するのである。

 次に、「詩的認識」というものを考える。例えば「夜は一つの海である」という比喩的認識を考える。これも、非詩的な日常体験に基づくものである。

 まず、詩人には夜の体験が与えられる。これ自体は全然詩的ではない。誰もが感じるものである。ところが、詩人はそこで連想力を働かせる。夜の闇が物象を覆い尽くし、自らの底部へと沈めていく様は、海の水が物象を多い沈めていく様と類似する。そこで、「夜は一つの海である」という詩的表現が生まれる。だが、その基礎にあるものは、非詩的な夜の闇の体験に他ならない。

 そして、これらの非詩的な体験はすなわち日常の体験であるが、時代性を帯びることがある。鮎川にとって、非詩的なものとして詩の基礎となるものは、まさに戦後の荒地であった。この荒地は、物理的な外界としての荒地でもあり、精神的な内面としての荒地でもあった。花を見るにしても、平和な時代に見るのと、戦後の荒地の時代に見るのでは、花自体の咲き方も場合によっては違ってくるだろうし、詩人の感じ方も違ってこよう。

 非詩的なものは、日常的な外部世界でもあり、日常的な内部世界でもある。詩的なものは、それら非詩的なものを基盤にして成立するのである。

テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

「中庭での合奏」
hoo01.jpg

オランダ人の日常生活を描いた画家ピーテル・デ・ホーホ(Pieter de Hooch, 1629-84)の1677年の作品。

 民衆を描くか、自然を描くか、聖像を描くかによって、絵の空気は違ってくる。民衆を描いた絵の空気はやわらかい。我々にそっと触れてくる布のような質感がある。民衆を描いた絵画の魅力の一部は、このやわらかさ(親しみやすさ)によるものである。

 この絵は、日常の何気ない一瞬を切り取ってきたものである。右側にいる通行人の存在が、描かれた情景の何気なさ・日常性を示している。そして、門の奥に遠くの住宅が丁寧に描かれることにより、合奏している人々とは別の人々の日常もしっかりと存在していることが示されている。そのことにより、世界が際限なく続く日常性で出来上がっていることが暗示される。

 日常は絵画に描かれることにより非日常へと変貌するのだろうか。むしろ逆だと思う。日常は絵画として描かれることにより、いっそう日常性が際立たせられる。鑑賞者は、たいてい美術館など非日常的な場で絵画を見る。そのような非日常的な空間で、日常を描いた絵画に触れると、日常への遡行が起きる。その遡行は非日常的な空間で行われるため、鑑賞者に負荷がかかる。この負荷により、日常の些事が再発見されるのである。

テーマ:絵画 - ジャンル:学問・文化・芸術

のんびり
 民法判例百選IIを読み終えたので、一息ついている。今日はこのままのんびりしていようか。のんびり法哲学の教科書でも読んでいよう。

 私は一冊の本を集中して読むことができず、何冊も平行して読む。今は特にすごい。今読んでる本を上げてみる。

「レヴィ・ストロース」「フーコー」「クリステヴァ」「清岡卓行詩集」「戦後60年<詩と批評>総展望」「記号論への招待」「レトリックの記号論」「性的人間」「美学辞典」「夢判断」

これに法律書が加わる。手を広げすぎのような気がする。一つずつつぶしていかなければなるまい。

 最近絵を見てその感想を書くのにはまっている。これがなかなか楽しいのである。粟津則雄ではないが、自分は批評的散文に向いているのかもしれない。だが、批評を書くためにはかなりの教養が必要だと思う。特に私は哲学が重要だと思っている。メルマガ発行をモチベーションにして、哲学の原典をまともに読んでいきたい。「夢判断」はあまり哲学っぽくないから、「純粋理性批判」も平行して読んでいこうかと思っている。

 ちなみに、絵画の画像は、アート at ドリアンからDLしている。このサイトはお薦めです。暇な時覗いていると楽しく暇つぶしができます。

 今はとても楽な気分だ。そういえば18切符がそろそろ発売になるみたいだ。東京にでも行こうかな。
「釣り師と牛のいる風景」
cuyp05.jpg

オランダの風景画家アルベルト・カイプ(Albert Cuyp, 1620-91)の1650年の作品。

 夕暮れ時、世界は金属的になる。まず、光の色が金や鉄の錆を連想させる。そのことによって、空間自体が金属的な硬さを備えたかのように思われる。そして、世界は刃物(金属製)のような鋭さをもって、我々の感性に迫ってくる。

 そのような世界の侵攻を前にして牛や帆船は耐え切ることができるのだろうか。この絵では、牛などはもはや戦うことを放棄している。むしろ、世界の中に埋没することを望んでいるかのようだ。空を大方覆い尽くした雲だけが、無言のまま世界の夕暮れに抵抗している。

 このような風景を私はこれまで見たことがないし、これからも見ることはないだろう。だが、作者は実際にこのような風景を見たのかもしれない。作者の経験した風景が絵に描かれることで、私もまた作者の経験を経験することができる。作者の時間と私の時間が絵において交わる。そして、私とカイプの時間が交わるのは、もはや絵においてしかありえないのだ。

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「White Ships」
sar06.jpg

アメリカ人の画家サージェント(John Singer Sargent, 1856-1925)の1908年の作品。

 ぱっと見た瞬間、何が描かれているか分からない。だが、少し時間が経つと舟が何隻か停泊していると分かる。空や海はもっと青くても良かったはずだ。だが、空も海も白っぽいから境界がよく見えない。

 通常、空と海は対立している。その対立を中和し媒介するものとして船がある。だが、この絵には空と海の対立もなければ船による中和もない。すべてが「形象を超えて輝くもの」として等置されている。船は白く描かれることによって、形象を捨て去る。そして、無限の白い広がりへと今まさに流れ込もうとしている。

 この絵には二種類のリズムがある。斑点によるリズムと、直線によるリズムである。斑点によるリズムは印象派の絵によく見られるが、この絵ではそれが水面の筆跡によって実現されている。

 この絵に特徴的なのは直線によるリズムである。マストや綱、舳先、帆の輪郭などが、斜めに交差することによって複雑なリズムが生み出されている。リズムは単調であってはそれほどリズム的ではない。だから、直線が平行・等間隔に引かれた場合、そこにはリズムは余り感じられない。四分音符しか使われない音楽に人が大してリズムを感じないのと同じである。直線は、様々な間隔で、様々な傾きをもって交わる時、複雑で魅力的なリズムを生み出すのである。

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詩誌
 軽谷佑子さんから「五度高く」を購入。明朗な叙情性を帯びた作品群がなかなか良かった。あと、表紙や冊子の中ほどに描かれた絵は、細かく描かれていて、読者に微視的な視線と巨視的な視線を交互に繰り返させ、豊穣で有機的な詩情を感じさせて、独特の魅力があった。絵が描ける人は尊敬します。

 久谷雉さんから「母衣」2・3・4・5号を送っていただいた。とりあえず2号を読んだが、全体として少し軽めの作風である。全体として質が高かったが、どれも似たり寄ったりの感じがした。読み込みが足りないのかもしれない。もちろん、一人一人の個性は感じるのだけど。私は久谷さんの作品が結構好きなので、読めてよかった。他の方の詩や散文にも刺激を受けた。

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「現代詩とは何か」(1)
 現代詩手帖特集版の「戦後60年<詩と批評>総展望」には、鮎川信夫の詩論「現代詩とは何か」が抄録されている。私が読めるのは抄録された部分のみである。要点をまとめる。

(1)詩を詩でないものから独立に切り離して論ずるのは不可能である。

(2)なぜなら、「われわれを詩に駆り立てるものは、詩そのものの空虚な美的価値の世界にあるのではなく、詩でないもの、つまりわれわれの生きている現実の生活の中にある」からだ。

(3)現代詩の概念が無意味に混乱しているのも、「詩そのものを、それだけ切り離して考えるところから生ずる悪習の結果であり、われわれを詩に駆り立てる詩でない現実の生活の実存的意味を忘れているからである」

(4)現代の荒地こそが詩でないものとして詩を規定している。現代の荒地こそがわれわれの共通の主題である。

(5)われわれは「詩を書く」ことによって現代に誠実なのだ。それは誠実であることの恒として、悲劇的なことである。

今回はここまでにして、後ほど内容を検討していきます。

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「Bridge at Villeneuve-la-Garenne」
sis01.jpg

印象派の画家アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley, 1839-99)の1872年の作品。

 まず気づくのは、光の表現は影があって初めて成立するということである。全く影がない絵画では、明るさ/暗さが表現されていないわけで、全体が明るいのか、全体が暗いのか、それとも明るさに変化があるのか分からない。影の部分が暗く描かれることで、初めて光の部分が際立ってくるのだ。

 「ヴィルヌヴ・ラ・ガレンヌ(←正しいかどうか分からない)の橋」という題名で、橋を描いているわけだが、橋が中心にきていないのがポイントである。橋はある地点と別の地点をつなぐものだが、この絵では片方の地点は描かれているがもう片方の地点は描かれていない。橋は描かれていない未知の地点へとつながっていくのである。だから、この橋はある意味どこにでもつながっていくことができる。

 橋は生活の中心にはない。生活の中心は住居である。だから住居は中心で光を浴び、それに対して橋は端っこで影を帯びている。

 この絵を見ていて奇妙な感傷にとらわれた。暗く描かれた橋がなかったらこの感傷はなかったに違いない。なぜ橋は感傷的なのだろうか。それはやはり橋の不安定さに起因すると思う。宙に浮いた細い建造物としての橋。その危うさが美しい。暗く描かれることでその存在はいっそう危うくなっているのである。

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「ロジェ・ジュールダン夫人の肖像」
bes04.jpg

アルベール・ベナール(Albert Besnard, 1849-1934)の1886年の作品。

 まず、照明を受けて、肌やドレスが黄色く輝いているのが目を引く。照明が変質させるのは人の表面だけではない。人の内面もまた、照明を受けることにより独特の精神状態へと変質させられるのだ。闇を照らす小さな照明は、人に神秘感を持たせ、孤独を感じさせ、人を思索へと導くことがある。表面の黄色は、そのような人の内的な変化をも表現しているかのようだ。

 また、照明など外的要因によって表面が変質させられたとき、我々は、その変質が、むしろ内的要因によって引き起こされたのではないかと想像することができる。人は照明によって黄色く輝かされているのではなく、むしろ自ら黄色く輝いているのだ、と想像することができる。なぜ夫人は黄色く輝かなければならなかったのか。それは隠された秘密のようなものが夜の特殊な瞬間にほろりと漏れ出てしまったことの表現なのではないだろうか。

 ドレスの下半身の部分が不釣合いに大きい。これは恐らく写実的に描いたのだろう。人間の下半身はもっとスリムなのにドレスは無意味にそこを膨らませている。ドレスのふくらみは、逆にスリムな実際の下半身を想起させ、際立たせる。

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曲など
 バーバー「弦楽のためのアダージョ」を聴く。音楽と共に立ち上がってくるものがある。それは私の中に立ち上がってくるのか私の外に立ち上がってくるのかわからない。場所が規定されない「立ち上がり」である。あるいはnowhereに立ち上がったとでも言えばよい。

 私は無色の感情を抱く。喜びでも悲しみでもない無規定の、ただエネルギーだけの感情である。そしてまた、音楽と共に静まってゆくものがある。地に伏してゆくものがある。その静まりもまたnowhereで起こる。

 私は石のように沈黙する。音楽はもはや物理的な振動でしかない。振動に共鳴して、私(石)は静かに回転を続ける。


 友人が東大法学部の助手になるそうだ。高校時代、彼とは県(といっても教育後進県福島県)で1・2位を争った間柄である。私が色々と回り道をしている間に、彼は順調に出世したようだ。不思議と嫉妬やら羨望やら焦りやらはない。

 私は大学時代、指導教官に、なかなか学者にはなれない旨の話を聞いて、科学哲学の大学院に進学するのを諦めたが、法学部の助手という手もあるのか、と気づかされた。もちろん、助手になるためには大学院で優秀な成績を修めなければならない。だが可能性がないわけではない。頭の片隅にでも入れておこう。やっぱり研究職が一番魅力的だし自分にあっていると思う。
メルマガについて
 メルマガを発行しようという構想はおととしぐらいから持っていた。当時大学を卒業して間もない私は、公務員になろうと思っていたが、それでも哲学が捨てきれず、何とかして勉強を続けようと思っていた。それで何かいいメルマガはないかと探したのだが、ちょうど運が悪かったのか、まともな哲学のメルマガを見つけることができなかった(あっても最終配信日がだいぶ前だったりした)。

 そこで、それだったら自分で書けばいいじゃないかということになったが、当時は塾講師のバイトもあり、LEC(法律の予備校)の通信講座の勉強も忙しくてとても時間が割けなかった。また、原語で読むことにこだわっていて、それも障害になった。

 翻訳でも別にいいや、と最近になって思えるようになった。原語にこだわってほとんど読めないより、翻訳でもとりあえず読んだほうが絶対プラスである。この心境の変化によってようやく発行にこぎつけることができた。挫折することなく続けていきたい。