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Author:sk
28歳。男。たまに詩を書いたりもする(筆名「広田修」)。哲学が好き。
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Albatros BLOG
日々の雑記。現代詩の話や哲学の話。文学や音楽、美術、芸術一般の話。ただただ書き捨てていくだけ。
会話を生み出す「場」
 会話が生じる「場」のようなものがある。たとえばしばらく会っていなかった友人と町で偶然出会う。すると、この「場」の力は高まり、臨界点を超えて会話は始まる。

 この「場」は一人でいるときにも、その人の周りに生ずることがある。その人が、会話を想定しながら物事を考えている時である。その人の思考が誰かに対する語りかけの形式をとっている場合である。

 この「場」は人の周囲の空間に物理的に存在するかのように感じられる。それゆえ「場」という比喩を使って表現しているわけである。しかし、実際は、ある人の心の一定の状態でしかない。相手が何か話したがっているな、と感じれば場があるように感じるし、自分が何かを話そうとしている時や話すことが要求されていると感じるときにも場があるように感じる。

 人はこの「場」、あるいは「雰囲気」を意図的に振り払うことがある。たとえば本を注文して届いたものを親が受け取った時、私は、それが何の本であるかを言わなければならないという義務感にかられる。そのとき、会話の生じる「場」は高まる。だが、それが法律の教科書ではなく、哲学の、しかもけっこう値の張る専門書だったりすると、私はあえて何も語るまいとする。そのとき、私は「場」を意図的に振り切っているわけである。
「ひかりごけ」
 武田泰淳原作の同名小説を映画化したもの。これはすごかった。

 戦時中戦地へと向かう(?)4人の乗組員が座礁して北海道のとある洞窟に閉じ込められる。近くに集落がなく、また真冬であるから、安全な場所へと帰還できないのである。

 飢えで一人ずつ死んでゆくが、船長は死んだ人の肉を食べることで生き延びる。そして、最終的には凍傷を負いながらも集落にたどり着き、一人だけ生還する。

 洞窟での船長の行跡が明らかになり、船長は刑事裁判にかけられる。


 船長は法廷で次のようなことを述べる。

 「私に食われた人間に裁かれるなら分かるが、検事に裁かれるのは納得がいかない。」

 「人の肉を食ったことのない人に自分を裁くことはできない。」

 そして弁護士に、「私の肉を食べてください」と頼む。


 船長の発言は、刑事裁判制度の根幹にかかわるものである。すなわち、

(1)被害者以外の人間が加害者を裁けるか。
(2)加害者が止むに止まれず罪を犯したとき、その精神の苦悩も知らない第三者がその加害者を裁くことができるか。

 難しい問題である。だが、人を裁くためには専門的な知識が必要だから、被害者や、加害者と同じ苦悩を経験した人、では法に従った的確な判断はまずできない。人を裁くことが専門的な職務である以上、それは第三者にゆだねざるを得ないと考える。


 「我慢」がこの映画のキーワードだ。人の肉を食べるということは禁忌を犯すことだから、ものすごい苦悩が伴う。その苦悩を我慢する。被害者以外の人間に裁判されるのは不満だ。その不満を我慢する。

 人生にはフラストレーションがつきものである。人間にとって、フラストレーションを我慢するというのは本質的なことのように思える。

テーマ:映像・アニメーション - ジャンル:学問・文化・芸術

journal
 手帖を買ってきたが、「」が入選で「荒絵」が佳作だった。「荒絵」は吉田氏が佳作に取っていた。吉田氏の好みがなんとなく分かってきた。

 「夏」は倉田氏の好みを多少意識して書いたので、入選してよかった。これで佳作にすらならなかったら、きっと私は投稿をやめていただろう。現代詩フォーラムでも受けが良かった。少しやわらかめに書いたからね。

 「ハチクロ」っていうの?あのマンガを初めの数ページ読んだらその時点で挫折してしまった。私には合わない。村上春樹よりも合わない。歳を食うと甘いものが食べられなくなるが、それと同じ現象かもしれない。

 ところで、自分に合わないものをすぐにこきおろす連中がいるが、それはどうかと思う。少なくとも私は寛容でありたい。
脱稿
 「現代詩の記号論」脱稿。19829文字(約49.5枚)。論文を書くのは卒論以来である。つまり二年半ぶりだ。もっと書きたいことはあったのだが、文字数制限があるから仕方がない。これから推敲する。
普通の日記
 論文は14000字ぐらいまで書いた。あと6000字しかないが、うまくおさまるだろうか。21日の日記に7000字と書いてあったから、3日間で7000字書いたことになる。多分間に合うだろう。ひょっとしたら今日の夜も書くかもしれないし。論文を書くのは楽しくもあり辛くもある。

 エドゥアール・ロックのダンス作品「アメリア」を見た(芸術劇場)。女性の激しい身体運動よりもむしろ、サポートしている男性の精神の運動を強く感じた。動きが激しい分だけ、時折挿入される静止部分がとても効果的だった。静止部分が「豊穣」だと感じたのは、そこで私が休息を得られたからだろうか、あるいは、そこで運動の余韻を深く噛み締めたからだろうか。装飾されていない時間には、過去の装飾が控えめに流れ込むのである。

 23日に友達と喜劇を見た。喜劇役者は崇高である。娼婦が崇高であるように。アリストテレスが喜劇をおとしめたのにはとても賛成できない。多くのものを失わないと、喜劇を演じることはできない。
 前座の日本舞踊も面白かった。抑制の美というもの。おくゆかしく、味わい深い。

図書館に行った
 「焔の文学」「アンリ・ミショー詩集」「パウル・ツェラン詩集」を返却。「焔の文学」は結局全然読めなかった。ツェラン詩集に載っていたブランショの批評は、ひとつの文学作品として高く評価できるものであった。よく理解できなかったけど。だから、「焔の文学」が読めなかったのはたいへん残念である。ミショー詩集も、後の方の詩論などはあまり読めなかった。

 今回は、宗左近と寺山修司の現代詩文庫と、「クリステヴァ」「ベンヤミン」を借りてきた。「クリステヴァ」は前々回半分しか読めなかったので再び借りてきたのである。

 岩波で哲学のシリーズがいくつか出ているようだ。一シリーズ10何冊かある。テーマごとに論文が集められているようだから、面白そうだ。いつかは読まなければなるまい。
Geburtstag
 今日は誕生日である。私ももう26になった。今日は本の返却日でもあるから、図書館に行く。

 あとは特に書くことがない。不老不死の薬が欲しい。
論文
 某賞に応募するために論文を書いている。評論が応募されているようだが、私が書いているのは明らかに論文である。だから、門前払いされかねない。だが、特に賞が欲しいわけではないのでかまわない。こういう機会を利用して、自分の考えを整理し深めていこうというわけである。

 序論だけで7000文字を超えた。文字数制限が20000文字であるから、少々厳しい。どうせなら24000字ぐらいまで許容して欲しい。そうすれば悠々と書ける。

 ひょっとしたら間に合わないかもしれない。だが、間に合わなくても別にかまわない。そのときは応募しないまでである。とにかく、審査員が詩人だから、私の書くような論文は恐らく相手にされない。文学的な気取った評論が受賞することは目に見えている。

 公募ガイドでも買おうかしら。自分にあった公募を探すのも良いかもしれない。今回の応募は恐らく自分にあっていないと思う。
反射
 反射とは、ある進行するものAが、別の静止するものBと相互作用することにより、一定の法則にしたがってその進行の方向を変える現象である。

 これを少し普遍的な現象としてとらえてみる。たとえば、私が、ある女性Xに対して欲望を抱いているとする。ところが、Xに振られることで、別の女性へと欲望の方向を向けるようになったとする。このとき、私の欲望は、Xと相互作用することでその方向を変えたのである。つまり、私の欲望はXにおいて反射されたのである。

 もうひとつ反射の例を挙げてみる。私はある絵画を見ている。私の興味はその絵画へ向かっている。その絵画に感銘を受けて、私は、その作者の別の作品にも興味を抱くかもしれない。そのとき、私の興味はその絵を見ることで方向を変えたのである。つまり、私の興味はその絵において反射されたのだ。

 このような「反射」の意味の拡張には無理があるだろうか。眠いのでこれ以上考える気が起きない。だが、「反射」という言葉でとらえられる現象は、今挙げた二つのほかにも沢山あるような気がする。

テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

「芸術の哲学」(2)
 アリストテレスによると、詩は虚構であるがゆえに普遍的であり、個別具体的な歴史的事実よりも哲学に近い、とのことだ。どういうことか。

 たとえば、詩の中に「雪が降る」という表現があるとする。だが、この表現は、雪が粉雪であるかボタン雪であるかを特定しないし、どのような降り方をしているかも特定しない。どんな雪がどんな降り方をしていようと、雪が降っていさえすればこの表現でカバーできるのだ。

 その点、歴史的事実においてはあらゆる細部が特定されている。一つ一つの雪片の形状・色・大きさ、それが空間をどのように移動したか、その無限の細部まで特定されている。それゆえ歴史的事実は一回限りであり、当該事実だけしかカバーできない。

 詩は虚構である。人間が言葉で作り出す虚構である。人間が言葉で作り出す以上、無限の細部まで事実を規定することはできない。それゆえ、詩による事実規定は細部があいまいであり、よっていろんなケースに適用可能である。「雪が降る」という表現は、降っている雪が粉雪であろうがボタン雪であろうが妥当する。事実の細部がどうであろうと、大枠で事実と表現が合致していれば、その表現は妥当する。その意味で、詩の表現は普遍性をもつ。


 なるほど、詩と歴史的事実は存在論的に異なるかもしれない。だが、たとえ我々が「歴史的事実」なるものを観念することができても、それが実際に我々の認識に与えられるとは限らない。

 歴史的事実とは、たとえば「現在」の全体的なあり方である。だが、人は「現在」をどこまで詳細に認識しているだろうか。人が認識する「現在」が無限の細部まで充填されているとはとても思えない。人が認識する歴史的事実もまた、細部はあいまいなのである。

 結局、人間の認識の次元では、詩も歴史的事実も細部はあいまいであり、両者の違いは詳しさの程度の違いでしかない。だから、詩が特に特権的な地位に立つとは思えないのである。

テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

つれづれ
 今日は疲れた。法律の論文試験の答案例を読むのは結構疲れる。刑事訴訟法のテキストを再読しているのだが、内容を覚えるつもりで読んでいるので、これまた疲れる。覚える頭脳をずいぶん使ったので、「芸術の哲学」などの本を読んでも内容が頭に入ってこない。

 法律学について自分の意見を述べたいのだが、学習の段階でもたいていの議論は出尽くしているし、なによりも論ずるためには広範で正確な知識が必要である。私はまだ、自説を述べられるだけのレベルには達していないようだ。

 メルマガの第八号を配信したら、まぐまぐで読者が二人減った(苦笑)。何が原因だろう。mixiのコミュニティもそうだが、人の増減はあまり気にしないほうがいいのかもしれない。そもそも、私のごとき素人が書いているのだから、そんなに人は集まらないだろうことはあらかじめ分かっている。逆に、あまり人が沢山集まってしまうと困る。大した内容じゃないから(謙遜ではなく)。

 思潮社に詩を送ったが、あまり期待できない。そのうち投稿はやめるかもしれない。でも、同人誌を作る金もない。

 私は法律をやってはいるが、基本的に覚えることは苦手だ。基本的に理系人間である。だから哲学史なんかは面白いと思ったことがない。向いていないのだ。自分で考えることの方が好きである。

行為の統辞・範列
 行為には意味がある。たとえば手を挙げる行為は、自分がタクシーに乗りたいという欲求を意味する。これは、行為と対象(あるいは内容)との間の記号関係である。意味があるという点において、行為も言語に似ていると言える。

 ここで、「意味」という語を広義にとらえ、あるものXの価値も、Xの意味であるととらえることにする。たとえば微笑むという行為は、相手に好意を示すという機能・目的を果たすが、この機能・目的を、微笑むという行為の意味として捉えるのである。

 ところで、行為は、意味を持つという点だけではなく、他の点においても言語に似ている。定型的な行為の連鎖もまた、言語と同じく統辞構造や範列構造を持つのである。

 統辞構造とは、たとえば「I gave her a present.」という統辞的単位(言語の場合はたとえば文である)において、主語のあとに動詞が来て、そのあとに目的語が来るというような、語の結合の規則によりできあがる構造である。

 また、この文では、Iの代わりにhe,she,Samが置き換え可能であり、gaveの代わりにsent,boughtが置き換え可能である。このような、それぞれの統辞的部位において置き換え可能な語が多数あるような構造が、範列構造である。

 さて、たとえば「外出」という行為の連鎖を考えてみる。我々は外出する時、歯を磨き、服を着替え、ドアを開け、ドアを閉め、自転車や自動車に乗り込み、出かける。この場合、歯を磨くことと服を着替えることはどちらが先でもいいが、どちらともドアを開ける前でなければならない。また、ドアを閉めるのはほとんどの場合ドアを開けたあとである。自転車・自動車に乗るのは、ドアを閉めたあとである。

 このように、「外出」という行為の連鎖においては、それを構成する一つ一つの行為の間に結合の規則があり、これを統辞的構造と考えることができる。個々の行為は文を構成する単語に対応し、「外出」は文に対応する。「外出」もまたひとつの統辞的単位なのである。

 また、「外出」においては、自転車に乗ることと自動車に乗ることは交換可能であり、自転車に乗ることと自動車に乗ることは範列関係にある。

 人間の定型的行為もまた統辞構造と範列構造を持ち、その点においても言語と類似する。


テーマ:ことば - ジャンル:学問・文化・芸術

「カフェ・ミュラー」
 ピナ・バウシュのダンス作品「カフェ・ミュラー」を見た(芸術劇場)。コンテンポラリーダンスは、You Tubeで2・3本見たくらいで、本格的なものを見るのは初めてだった。

 まず気づかされたのは、我々は人間の特定の動作に特定の意味を結び付けて理解しているということだ。動作もひとつの記号なのである。
 たとえば、仰向けに寝ながら両手を上に上げると同時に状態を少し浮かせる(動作A)。この動作は、助けを求めている動作だと我々は解釈する。また、仰向けに寝ながら下半身を痙攣的に浮かせる(動作B)。この動作は、何らかの病気の発作だと我々は解釈する。

 コンテンポラリー・ダンスにおいては、特定の意味を担った動作が、通常の文脈から引き離され、また通常ではありえない順序で結合させられる。たとえば動作Aや動作Bが何の脈絡もなく突然行われ、しかもそれらが結合させられたりする。
 それゆえ、動作(=記号)は、通常の外示作用(denotation)だけではなく、共示作用(connotation)をも働かせる。たとえば動作Aは、助けを求めるという意味合いは薄れ、隣接する他の内容(たとえば人間の根源的欲求であるとか、神の発見(人間を助けるのは神であるとすれば)であるとか)を指示するのではないかと鑑賞者は憶測する。外示義が正常に成立しない以上、人は理解の内容を共示義に求めざるを得ない。

 さらに、日常生活では見られない動作というものも頻用される。たとえば、手のひらを上に向けながら両手を斜め下に差し出し、足を引きずりながら歩くという動作には、慣習的な意味づけがなされていないから、鑑賞者はすぐにはその動作を理解できない。だが、難解でありながら印象的な詩行のように、我々に独特の複雑な情緒的印象を与える。「身体のポエジー」とは言い得て妙である。

 舞台には椅子が沢山置かれてあり、ダンサーが椅子にぶつからないように椅子をどける役の人もいる。この役はものすごく現実的かつ機能的で、非現実的かつ美的なダンスとの対立・緊張がとても面白かった。

テーマ:ダンス - ジャンル:学問・文化・芸術

「芸術の哲学」(1)
 渡邊二郎「芸術の哲学」(ちくま学芸文庫)を読んで、気になったことを書いていこうと思う。

 まず、少し読んでみて思ったのは、芸術のような有機的で複合的な現象は、学問的な分析が難しいということである。芸術については、むしろ文学の方が雄弁に語れるのではないかとも思う。学問よりも文学の方が芸術を語るのに適しているのかもしれない。渡邊の記述も、肝心なところでは文学に近づいているようだ。

 たとえば、

芸術作品は、「真実」を目指すのであって、「美」を目指すのではない。生と世界内存在の「真実」の作品化・結晶化の「現出(Erscheinen)」と「輝き(Scheinen)」の結果が、「美(schoen)」として現れ出るのである。


ここでは、「真実」という語の意味が判然としない。また、「輝き」とは明らかに比喩であって、芸術作品そのものの物理的な発光のことではない。「真実」「輝き」という語は、ここでは文学的に用いられている。(真実と書かずに、「」つきの「真実」を用いているところに、学問的ではない特殊な意味を持たせようとする意図を読み込むことができる。)

 「真実」について、次のような箇所がある。

その「世界」と「存在」の「真相」は、単に科学的「客観性」においてあるものではない。それは、そこに生きる個人それぞれの「生」の営みと痕跡が、その中に深く刻み込まれた「世界」であり「存在」なのである。


「真相」は「真実」と交換可能であろう。もはや「真実」は、科学的論理的な分析を受け付けない。科学的論理的分析は表層的で、「生」の全体性・有機性をとらえることができないのである。「世界」「存在」という語も、人間の全的なあり方においてとらえられるものである。

 渡邊の基本的な視点として、(1)論理による表層的な分析の拒否、またそれと表裏をなすものとして、(2)人間の全的な体験・存在様式の重視、というものがあるような気がする。

 だが、論理による分析を拒否したところにどのような哲学が成立可能だろうか。人間の全的なあり方を重視するならば、それは文学になってしまいはしないだろうか。

 渡邊の姿勢には、私は一抹の不安を感じる。「芸術を哲学する」というのはそもそもアポリアであるような気がする。それでもそれを無理に遂行しようとすれば、文学的哲学・哲学的文学が成立するのみであって、真正な哲学は成立しえないのではないだろうか。

テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

植物は破壊されることにより生命をよりよく示す
 「講座美学」全五巻、「現代法哲学」全三巻を、日本の古本屋にて注文。親になんて言おう。パラサイトの苦悩である。


 桃畑で(桃の注文はまだ受け付けてますよ〜)トラックが来るのを待っていたとき、雑草の葉を蹴って暇つぶしをしていた。

 しばしば雑草の葉はちぎれとび、破れた葉の切り口からにおいのようなものが立ち上る気配がした(実際に匂ったわけではない)。ちぎれとんだ葉を見たとき、私は衝撃を受けた。

 葉は惨殺されたのである。あるべきところに葉がなく、あるべきでないところにちぎれとんだ葉はあった。しかも、不規則な形態に破れていた。私は、自分の行為の残酷さに戦慄を感じると同時に、ちぎれた葉の悲惨さに悲しみを感じた。

 この衝撃は私の予期しないものだった。普段だったら、葉を蹴りちぎってもなんの印象も受け取らなかったに違いない。しかし、今日は蹴りちぎられたあとの植物をあまりにもまざまざと見てしまったのである。

 私は、気づかないうちに案外残酷な行為をしてしまっているのかもしれない。いや、実は残酷さを感じないように自分を馴らしているのである。自分の行為の残酷さを、人は自分に対して隠そうとするのである。 
HP移転
ホームページを移転しました。
http://www15.plala.or.jp/sgkkn/
まだpoetryの方しか移転していません。philosophyの方は後日。
plala
 自宅の回線が使えるようになりました。今度はぷららです。トラブルがないと良いのだけれど。

 メールアドレスが変更になりました。
 sgkkn@olive.plala.or.jp

 ホームページの移転もそのうちやります。


 しかし、美との関連において語られる「真」ないし「真実」というものが今ひとつよく分からない。「真」というと、命題の真偽を思い浮かべてしまう。だが、命題について言われる「真」と、美について言われる「真」ではだいぶ内容が違ってくる。

 良い芸術作品に出会ったときに人は感動するかもしれないが、そのときの感動は、「本物に出会えた」「世界の真実にまみえた」とった類のものなのだろうか。

 釈然としない。誰か賢い人がいたら、美学の文脈で語られる真実性というものについて詳しく教えてもらいたいものだ。
 実家の桃採りの手伝いをしています。

 お中元などで桃を買いたいという方は連絡いただければ売りますよ〜(いや本気です。)デパートなんかで買うよりずっと安いです。もちろん質は同じです。家庭用の安いものもあります。

 注文は、このブログの秘密のコメントを利用していただければOKです。秘密のコメントは僕にしか読まれませんので。
依存
 ネットカフェにて。

 ホームページがとびました。10日からNTTのサービスを受けるので、10日に移転しようと思います。

 だいたい30時間ぶりぐらいでネットをやるが、30時間ぐらいたつとネットがやりたくなるようだ。たち悪いね。タバコよりも依存性が強いかもしれない。

 しかし、行動主義というものは、生物のあり方を全的に説明しようとすれば失敗を余儀なくされるのではないだろうか。
 モリスの行動主義的な記号論についての説明を読んだが、彼の説からは、人間を行動に駆り立てるようなものしか記号として捕らえられない。
 たとえば、障害物があるという記号は、実際の障害物と似たような仕方で人間の行動を支配するという。だが、たとえば「世界」という記号は、いったい人間のどんな行動を支配するというのか。モリスの説では「世界」を記号として捉えられない。
 人間の内面世界(カッシーラーの言う「シンボル系」)を無視するのは無理があると思う。
 ギルバート・ライルを読まなければ。「Concept of Mind」は、学生時代に中途半端に読んだまま放置している。
「地理学者」
ve10.jpg

バロック時代のオランダの画家フェルメール(Vermeer, 1632-75)の1668-69年の作品。

 鑑賞者は、絵画を見るに当たって、原則的に異質のものと出会う。自分の肖像画や自分の住み慣れた街の絵を見ることはほとんどないはずだ。だから、鑑賞者は、自己と絵画の差異に直面するわけである。

 ところで、言語が差異の体系であることを類推して、人間もまた差異によって規定されていると考えることができる。私は17世紀の人間ではない。私は地理学者ではない。このような無数の差異によって私は規定されているのである。

 とすると、鑑賞者は絵画において自己と異質のものと出会うことにより、差異に気づき、その差異によって自分を再び規定しなおすことになる。私は17世紀の人間ではなく21世紀の人間である。私は地理学者ではなく受験生である。などなど。鑑賞者は、差異に直面することにより、自己の特殊性を改めて確認するのである。

 だが、絵は黙して語らない。だから、人は、絵の中の地理学者に質問することによって彼の内面を知る、そんなことはできない。人がもし地理学者の内面を知ることができたなら、地理学者の内面と自己の内面の差異を知ることができる。人が外面よりむしろ内面によって多く規定されるとするならば、地理学者の内面を知ることによって、よりよく自己を確認することができる。だがそれはできない相談である。

 鑑賞者の絵を見ることによる自己確認はこのようにして不完全なままである。だが、不完全なことは悪いことではない。自己がより多く確認されると言うことは、自己がより多く暴かれると言うことだ。たとえば相手が幸福な幼年時代を過ごしたことを知れば、自分の不幸な幼年時代を改めて確認してしまうことになりかねないのである。

 絵画は優しい。絵画は、鑑賞者の内面を必要以上に暴こうとしない。鑑賞者は、都合の悪い自己規定をしなくて済む場合が多いわけだ。

テーマ:絵画 - ジャンル:学問・文化・芸術

パウル・ツェランを読む(2)

閃光

黙したからだで、
きみは砂地の上のぼくのかたわらによこたわっている。
満天の星の下の女よ。

………………………

屈折して光が
ぼくに注いだのか?
それともこれは、
ぼくら二人の頭上でまっぷたつにされた
断罪の杖だったのか、
あんなに閃いたものは?


 人間の意識には時折閃くものがある。そのとき、あたかも閃光を見たかのように感じることもある。電流のようなものの後に、精神のつかのまの高揚が導かれる。

 閃くものは、アイディアであったり、記憶であったり、あるいは閃くという「感じ」そのものであったりする。だから、「閃いた」と感じるだけで、何が閃いたか分からないときもある。そんなときはきっと、精神が、閃いたものをうまくキャッチできなかったのだ。

 閃くのは基本的に内的な経験である。だが、この詩においては、それが閃光という外的事物に置き換えられている。内的世界の外的世界への投影である。

 恋人を傍らに置き、いったいツェランの脳裏には何がよぎったのか。ツェランはそれを捕まえ損ねている。とりあえず断罪ではないかと言っている。恋愛は罪なのだろうか。

 ツェランに閃いたものは、世界の構造である、ととりあえず考えてみる。それは彼に欠けていたもので、彼がそれを捕まえ損ねることによって、その欠落は埋められることがなかった。そして、恐らく世界の構造は二度と彼に閃くことはないだろう。彼の欠落は永遠に埋められないのである。

 世界の真の姿は、閃光として、我々の意識をごくまれに襲う。だが、我々は必ずそれを捕まえ損なう。ただ、閃光として、その存在を知らしめるだけである。ツェランの経験はそのようなものではなかったか。それは愛の状態にある者に対してのみ閃くものなのかもしれない。

テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

パウル・ツェランを読む(1)

ぼくは聞いた、水の中には
ひとつの石と、ひとつの輪があると、
そして水の上のほうには言葉があって、
この言葉が石のまわりに輪をえがかせていると。

ぼくは、ぼくのポプラがこの水中に降りて行くのを見た、
ポプラの腕が奥をつかもうと、伸ばされるのを見た、
ポプラの根が空へむけて夜をねだっているのを見た。

 −−「ぼくは聞いた」より


 水は静止している。だが、論理的には、水は動くことができる。場合によっては動くかもしれない、そのような不安定な状況で水は安定しているのである。

 記号は、「表現−内容−解釈者」の3項があって成立するものである。ところが、この詩では、「言葉−石−輪−ぼく」の4項が登場する。1項余計なのである。「表現」に「言葉」が対応し、「解釈者」に「ぼく」が対応するのは容易に分かる。では、残された「内容」と「石」「輪」の関係はどうなっているのだろうか。

 ここでは恐らく、内容が二重化されているのである。つまり、通常、記号内容として単層的にとらえられているものが、実は二層構造、すなわち石のまわりに輪があるような構造をなしていることが語られているのだ。どういうことか。

 「猫」という記号は猫という内容を持つ。だが、この猫という内容は、「存在」によって基礎付けられているのである。すべての内容は、存在している。それゆえ、このように「存在」によって基礎付けられているのである。つまり、記号内容(たとえば猫)としてとらえられているものは、「輪」として、存在=「石」のまわりをめぐっているのである。

 それゆえ、「言葉−石−輪−ぼく」には、「記号表現−存在−記号内容−解釈者」がそれぞれ対応するのである。記号内容は、輪として存在のまわりをめぐっているのだ。

 そして、このような構造は、水、すなわち不安定な安定の中に浸されている。水が激しく動く時、記号は解体され、あるいは再構成され、あるいは変質を被り、あるいは消滅する。

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