渡邊二郎「芸術の哲学」(ちくま学芸文庫)を読んで、気になったことを書いていこうと思う。
まず、少し読んでみて思ったのは、芸術のような有機的で複合的な現象は、学問的な分析が難しいということである。芸術については、むしろ文学の方が雄弁に語れるのではないかとも思う。学問よりも文学の方が芸術を語るのに適しているのかもしれない。渡邊の記述も、肝心なところでは文学に近づいているようだ。
たとえば、
芸術作品は、「真実」を目指すのであって、「美」を目指すのではない。生と世界内存在の「真実」の作品化・結晶化の「現出(Erscheinen)」と「輝き(Scheinen)」の結果が、「美(schoen)」として現れ出るのである。
ここでは、「真実」という語の意味が判然としない。また、「輝き」とは明らかに比喩であって、芸術作品そのものの物理的な発光のことではない。「真実」「輝き」という語は、ここでは文学的に用いられている。(真実と書かずに、「」つきの「真実」を用いているところに、学問的ではない特殊な意味を持たせようとする意図を読み込むことができる。)
「真実」について、次のような箇所がある。
その「世界」と「存在」の「真相」は、単に科学的「客観性」においてあるものではない。それは、そこに生きる個人それぞれの「生」の営みと痕跡が、その中に深く刻み込まれた「世界」であり「存在」なのである。
「真相」は「真実」と交換可能であろう。もはや「真実」は、科学的論理的な分析を受け付けない。科学的論理的分析は表層的で、「生」の全体性・有機性をとらえることができないのである。「世界」「存在」という語も、人間の全的なあり方においてとらえられるものである。
渡邊の基本的な視点として、(1)論理による表層的な分析の拒否、またそれと表裏をなすものとして、(2)人間の全的な体験・存在様式の重視、というものがあるような気がする。
だが、論理による分析を拒否したところにどのような哲学が成立可能だろうか。人間の全的なあり方を重視するならば、それは文学になってしまいはしないだろうか。
渡邊の姿勢には、私は一抹の不安を感じる。「芸術を哲学する」というのはそもそもアポリアであるような気がする。それでもそれを無理に遂行しようとすれば、文学的哲学・哲学的文学が成立するのみであって、真正な哲学は成立しえないのではないだろうか。 テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術
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