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Author:sk
28歳。男。たまに詩を書いたりもする(筆名「広田修」)。哲学が好き。
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Albatros BLOG
日々の雑記。現代詩の話や哲学の話。文学や音楽、美術、芸術一般の話。ただただ書き捨てていくだけ。
図書館に行った
 「転校生とブラックジャック」「詩的90年代の彼方へ」返却。

 「転校生とブラックジャック」は、議論形式で、読むのに結構頭を使う。文章が一つの立場に固定されていれば読みやすいのだが、文章の依拠する立場が次から次へと移り変わる。よく理解できない箇所も多かった。

 永井氏の言うように、一つの立場に固執して、それを擁護し、対立する立場を批判する、それだけでは哲学として不十分なのかもしれない。自分の立場も批判し、かつ相手の立場も擁護する。そのことによって、いくつもの立場の考え方を同時に深めていく。それこそ哲学なのかも知れない。

 「詩的90年代の彼方へ」は、ほとんど読まなかった。私は基本的にジャーナリズムというものには疎いのである。何かの文章を前提に、それにたいしてああだこうだと意見を述べるスタイルのようだったが、もとの文章を読んでいないから、今ひとつピンとこないのである。

 「安東次男詩集」と、浅田彰「ヘルメスの音楽」、「シュトックハウゼン音楽論集」を借りてきた。少し音楽学とかやった方がいいのかもしれない。楽器が使えないとだめなのかな。

 帰り道の途中で気づいたのだが、ここ数ヶ月の現代詩手帖のバックナンバーの詩誌月評欄を見て、良さそうな同人誌の連絡先を控えてくればよかった。最近、現代詩手帖からはだいぶ疎くなってしまった。もともと熱心な読者じゃないけど。

 いくつか良さそうな同人誌を送ってもらって、本当に良かったら、自分の書いた詩や批評を送って、「僕も仲間に入れてくださいよ〜」と頼んでみる。4、5誌にあたれば、さすがに1誌くらいは受け入れてくれるだろう。この次図書館近辺に行くことがあったら、忘れず連絡先を控えてこよう。
音楽の体験
 私はたいていヘッドフォンで音楽を聴く。音楽を聴いていると、頭の中が空っぽになっていて、そこで印象がダンスしているように感じられる。音楽の時間軸のようなものが、右耳と左耳をまっすぐつないでいて、それに沿って印象がダンスするのである。

 私は、この音楽のダンスを、どこかの知覚器官で受容して、脳の中で再構成して、それから体験しているのではない。音楽の体験は、そのような迂遠な科学的言辞を拒絶する、と敢えて言ってみる。印象のダンスそのものが音楽の体験なのであり、ダンスと体験の間には何も介在するものはない、と敢えて言ってみる。

 科学的言辞や論理的言辞が有効に働かない領域では、文学的言辞のみが何事かを語ることができる。詩人が「詩でしか書けないことがある」というとき、彼はこのような領域を想定しているのかもしれない。

追記:
 これを書いていたときどうやら頭が混乱していたようなので少し追記する。音楽の印象と音楽の体験の間に何物も介在しないのはいうまでもない当然のことである。印象は既に体験なのだから。
 「印象・体験に先立つ、気体の振動とか脳の情報処理とか、そういうものは存在しないのだ」こう書けばよかった。つまり、なまの体験をそのまま記述しようとすれば、そのような科学的な記述は無効であるということだ。
「白痴」など
 新潮文庫の坂口安吾「白痴」読了。短編が7編入っていた。福田恒存の解説が的確なので、書くことに窮してしまう。多少観念的なのだが、そこに現れる思想というものが、登場人物の人格にフィットしている。観念的であっても、そこに遊戯はなく、ただ必然的な思考があるのみだ。これが三島との大きな違いだと思う。三島は明らかに遊んでいる。

 思想が人格に即しているというまさにそのことによって、読者としての私には理解しがたい思想が現れる。難解で理解しがたいのではなく、共感できなくて理解しがたいのである。登場人物と私の人格が離れているからこそ、明快でありながら実感できない思想というものが現れるのだ。それに対して遊戯的な思想は、あまり共感する必要がないので、比較的容易に理解できてしまう。

 同じく新潮文庫の「堕落論」も読んでいる。これと、文芸文庫の「桜の森の満開の下」を読み終えたら、坂口について何か書きたいような気がする。まあブログ記事で終わるかもしれないが。その可能性は大だ。

 春陽堂という出版社が「山頭火文庫」というのを出している。句集(一)は読み終えて、今は句集(二)を読んでいる。俳句って案外読むのに時間がかかる。作者の位置に立って感動を追体験する、この精神の運動が、案外楽でないのだと思う。基本的に私が遅読だということもある。

俳句
山頭火を真似て書いてみる。

・一本の木の枝が遠く近く爪を切る

・杉の木がまっすぐの陰が湿っている

・薪を割る機械の内部も

・雀が歩く私も雀みたいに

・風かと思ったら鳥だった葉が揺れる

・会えば積雪別れれば積雪

・空は雲だった曇り空

生まれて初めて俳句を作ってしまった。

テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

低める
 「俺はダメな奴だ」と思うことがけっこうある。お金が絡んでくるときである。

 例えば、ついついアマゾンで本を何冊も買ってしまい、そのぶんのお金を親にせびる。紙幣をもらった瞬間は、肉質の喜びを感じる。だが、すぐさま涼しい罪悪感が私の肩をなで、自分の部屋に帰る頃には、私は歯をかみ締めて、体温が低まるのを感じている。

 この歳になって職にも就かず、しかもこれから大学院に行こうとしているのである。勉強をしているときは、それが贖罪以上の営為だと思うことができるので大丈夫だ。だが、今日のように、何もする気が起きずに、ただ時間と可能性を食いつぶしているようなときは、自分を救うことができない。

 嗚呼、本当にダメな奴だ。そう思うとイライラしてくる。布団を蹴飛ばしたり、電柱を蹴飛ばしたりして衝動を発散する。理想通りに行かない現実というものを、食べようとしても食べられない味のないゴムのようなものを、それでも噛み潰してやりたくて仕方がない。

 なんかひどい文章になったな(苦笑)。いつもこんなもんなのかもしれないが。

音楽に関する雑感
 最近はブラームスなどの交響曲を聴いている。ピアノ曲から入って、ピアノ協奏曲へ、そして交響曲へ、という流れである。

 交響曲は、音の質感が柔らかい。そして、いくつかの旋律が対立することなく自然に融合していく。目立った緊張というものはないが、それだからこそ、却って、それぞれの柔らかい音の内在的で豊かな緊張が意識されるようになる。曲のテンポも比較的緩やかで、鑑賞者を拒絶せず、懐を開いて滑らかに受け入れてくれる。

 ピアノ曲ではこうはいかない、と私は感じている。ピアノの音は、衝突し拡散する。ひとつひとつの音の緊張は顕著だが、長く持続しない。旋律同士ははじきあい、鑑賞者もまたはじかれる。


 光の存在の条件として明るさがある。つまり、明るさなしでは光は考えられない。同じように、音の存在の条件として明るさがあると思う。どんなに低い音でも、必ず聴き手に多少の明るい印象を残す。どんなに悲愴な旋律においても、その旋律を構成する音の明るさを隠すことはできない。なぜ音はかくも明るいのだろう。
山頭火(3)
 山頭火の句には、言葉のかかり方が微妙なものがある。

人を見送りひとりでかへるぬかるみ


 この句は、三通りに解釈することができる。

(1)「かへる」は終止形であると読む。つまり、この句は、「人を見送りひとりでかへる」のところでいったん切れて、そのあとに「ぬかるみ」があったという状況を添えている、と読むのである。この句は、人を見送って一人で帰る途中にぬかるみがあった、という出来事を表していることになる。

(2)「かへる」は連体形であると読む。さらに、「人を見送りひとりでかへる」という「ぬかるみ」を表していると読む。つまり、人を見送って一人で帰るという「こと」はひとつのぬかるみである、ということになる。

(3)「かへる」は連体形であると読む。さらに、「ぬかるみ」は私であると読む。つまり、人を見送って一人で帰る私はひとつのぬかるみである、ということになる。

 山頭火は、この簡潔な句によって、上の三つの認識を同時に表現している。人を見送って一人で帰る途中にぬかるみがあった。思えば、人を見送って一人で帰ることも一つのぬかるみのようなものだな。それに、こうして一人で帰っている私もひとつのぬかるみであろう。そんな認識を一つの句で表現してしまっているのだ。

テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

あらゆる詩こそ詩である
 「あらゆる音楽こそ音楽である。」このような確信があったからこそモーツァルトは多様な作品を生み出せたのだ、と小林秀雄は書いている。これは正しいと思う。

 作曲家は、自分のスタイルにこだわりがちで、それと反するようなスタイルに触れると、「あれは音楽じゃない」などと言って、「音楽」という語の妥当する範囲を不当に狭めるのかもしれない(私は作曲家ではないからよく分からないけれど)。それに対してモーツァルトは、およそ誰かがそれを「音楽」と呼んでいれば、自分もそれを音楽として受け入れていたということなのだろう。

 同じことは詩についても言える。「あらゆる詩こそ詩である。」特定のスタイルのものだけを「詩」と呼んで、それ以外の詩のようなものを「詩ではない」として排斥する。それでは詩人の可能性は狭められ、多様な作品を生み出すことはできない。

 しかし、と私は思う。本当に「詩」と呼ばれるものをすべて詩として受け入れてしまって良いのだろうか。明らかに低劣な詩というものがあり、詩人はそのような詩は書かなくても良いのではないだろうか。そのような詩まで、詩として受け入れる必要はないのではないか。

 ただ、どのような詩を「明らかに低劣」と判断するか、その判断にはブレがあるから、念のためあらゆる詩を詩と読んでおいたほうが良いのかもしれない。
山頭火(2)

蜘蛛は網張る私は私を肯定する



 山頭火の作品には、一つの句の中に二つの事象が描かれているものが多い。前回取り上げた作品では、その二つの事象の間の関係が希薄であり、二つの事象は、ただ作者をめぐる世界に同時に生起したにすぎなかった。だが今回は少し事情が異なる。

 「蜘蛛が網を張ること」と「私が私を肯定すること」の間には、何らかの関係がありそうである。思いつくのは、(1)類似の関係と(2)対立の関係である。

(1)類似の関係
 蜘蛛にとって網を張ることは、自分が捕食者であることを確かめ肯定することである。蜘蛛は捕食者であるから、網を張ることは捕食者である自己を肯定することになる。

(2)対立の関係
 蜘蛛が網を張ることは、網という、外的で操作の及ばないものに自己の存命を託すことである。網に頼るということは、自律した自己というものの否定である。

 文学的才能のある人ならばもっと精妙な関係を見出せるのだろうが、私の単純な頭脳ではとりあえずこんなものを思いついた。だが、問題はなんらかの関係があるということであり、関係の内容自体は問題ではない。

 二つの事象があって、その間に関係があるとき、(1)関係の種類と(2)関係の強度が問題になる。関係の種類は不連続で質的であるが、関係の強度は連続的で量的である。例えば因果関係を考えると、「雨が上がった」ことと「気分がよくなった」ことの間に因果関係を見出すのは容易(関係が強い)だが、「風が吹く」ことと「桶屋が儲かる」ことの間に因果関係を見出すのは難しい(関係が弱い)。


テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

思ったこと
 映画は文学の一種のような気がする。一つには台詞が文学的であることが多い。だがそれだけではなく、人生の微妙なあり方や、人間の性格、人生の真実などを描こうとする点で共通しているように思えるのだ。

 もちろん、映画は映像・音楽で、文学は文字で書かれた言葉、という媒体の違いがあり、それに由来する様々な相違点はある。だが、目標としていることはある程度共通しているような気がする。

 唐十郎「佐川君からの手紙」読了。これは芥川賞受賞作である。佐川一政という人肉事件を起こした人物といろいろと交渉を持ったというK・オハラなる人物が登場する。K・オハラは、佐川との交渉を主人公に詳しく語るのだが、佐川はオハラなる人物を知らないと言う。

 主人公にとって、オハラは、姿・動作・声として実在的に迫ってくる。一方で、佐川の言によれば、オハラは存在自体が怪しくなる。存在しているようで存在しない、あるいは存在しないようで存在する、そんな人物をどう扱ったらよいのか。互いに矛盾する信念があるのだが、かといってどれが間違っているともいえない。そんなとき人間はどうしたらよいのか。あるいは、人間はそのような状態に堪えられるのだろうか。
「列車に乗った男」
 監督:パトリス・ルコント、2002年フランス製

 一人の男(Aとする)が列車である街にやって来る。この男は体つきがいかつく、寡黙でシニカルで、その町で銀行強盗をしようとしている。その男が、その町でもう一人の男と出会う。こちらの男(Bとする)は、体つきも貧弱で、町の外に出たこともなく、昔教師として詩を教え、饒舌で、ワイルドな男にあこがれている。

 対照をなす二人だが、AがBの家で暮らすにつれ、互いに影響を与え合っていく。Aは詩に興味を持ち、生徒にフランス語を教えもする。Bは勇気を出して、騒いでいる若者をたしなめたり、Aから銃を借りて銃の練習をしたりする。

 Aは銀行強盗に失敗して死ぬ。Bは手術で死ぬ。だが、死ぬ間際に、BがAにBの家の鍵を渡し、AはBの家でピアノを弾き、Bは列車で旅に出る、そんな映像が流れる。

***

 カメラワークや視点を工夫している。例えば、Aが街路を歩いている様子を、初めは遠くから、次は近くから、最後は上から撮ったりする。これも一つの「現実の異化」なのだろう。認識の切り口を変えるという方法は、詩でもよく使われる。

 正反対の人間同士は嫌い合うことも多い。だが、この作品では、BはAのような人間に熱烈に憧れ、Aの方でも、Bの生き方に多少興味を抱いている。こうした、二つの人格をつなぐ優しい引力のようなものが、二人の間に生まれる友愛の根拠であろう。AとBの最大の共通点は、人間に対する愛情である。

 この作品は、二人の男の人格をうまく描き出し、そのことで二人の間の対照を際立たせている。また、正反対の人間同士のやり取りを、実に自然に描き出している。

読書状況
 檜垣立哉「西田幾多郎の生命哲学」読了。「理解した」という手ごたえをあまり感じなかった。うやむやな感じ。ブログで採り上げてあれこれ考えたいと思う。

 三島由紀夫「鏡子の家」読了。すごかった。三島の感受性はきわめて鋭敏であり、また思想と強く連結している。登場人物の複雑な心理の動きには、三島自身がある程度投影されている。三島はストーリーに注釈をつける。この注釈が華麗なのである。

 山梨正明「認知言語学原理」はほぼ読了。分かり易くて、読んでいて楽しかった。文字通り、認知言語学の原理がわかる、お薦めの本。次はレイコフ「認知意味論」を読もうか。だが、あの本は高いので、来月になってから注文しようと思う。

 魚津郁夫「プラグマティズムの思想」を読み始める。哲学の本はやはり一番面白い。

「認知心理学1 知覚と運動」(東京大学出版会)を読み始める。

 ブルーム、セルズニック&ブルーム「社会学」を読み始める。ギデンズの教科書があまり面白くなかったので、別の社会学の教科書を読もうというわけだ。

 あと、有斐閣アルマの「法哲学」、「法社会学」、有斐閣Sシリーズの「法思想史」を読んでいる。

 あと、メルマガで純粋理性批判を読み始めたので、それも読んでいる。カントの専門家でもない私ごときが、メルマガでカントを扱うなんてことが許されるのだろうか。しかも原典をじかに読むという形で。あのメルマガを専門家が読んでいたら、笑われそうである。


 自由な時間が持てているので、本が面白いように読める。
「モオツァルト」(1)
 新潮文庫の「モオツァルト・無常という事」の解説で、江藤淳は、「そこには、批評という形式にひそむあらゆる可能性が、氏の肉声に触れて最高の楽音を発しながら響き合っていた」と「モオツァルト」を評している。批評のあらゆる可能性が含まれているのならば、これを分析しない手はない。批評の方法を盗めるからだ。ということで、「モオツァルト」をネタに、批評の分析、すなわちメタ批評をしようと思う。江藤の言が文学者にありがちな誇張でないことを願うばかりだ。

「1」について。どのような批評の方法が採られているか。

(1)先人の印象批評を引用。(ゲーテのモーツァルト評)
(2)評者(ゲーテ)がモーツァルトの音楽に触れたときの有様を想像。(「美しいモオツァルトの音楽を聞く毎に、悪魔の罠を感じて、心乱れた異様な老人」)
(3)文学者(トルストイ)、評者(ゲーテ)の、ベートーヴェンの音楽に関する伝記(「異常な興奮を経験した」「無理解或は無関心」)。
(4)ゲーテの伝記を解釈。音楽経験を想像。

 思うに、広義の批評には、

(A)体験(B)狭義の批評(C)解釈(D)想像

という4つの契機が含まれている。これは、批評家自身(つまり小林)が行うこともあれば、他人(過去の批評家、ゲーテなど)が行うこともある。

 他人の体験を、批評家自身が解釈したり想像したりすることも可能である。また、他人の批評を、批評家自身が体験したり批評したり解釈したりすることも可能である。さらに、他人の解釈を、批評家自身が体験したり批評したり解釈したりすることも可能である。それぞれの組み合わせによる広義の批評が可能なのである。
批評について
 もりおかだいちさんの「蜘蛛の内部にて」を批評。(click!)一番下です。
 もりおかさんの作品自体がなかなかの優れものなのでぜひ読んでみて下さい。

 私にとっての批評とは、主に作品の理論的分析である。普通は印象批評から入るのだろうが、私は初めから詩の理論に興味があった。だから、一つの詩の見方を提示して、その観点から問題となっている作品を読んでいく、というのが基本的なスタイルになっている。

 だが、先人たちの批評を読んでいると、作品評よりも人物評の方に重点が置かれ、また自由に印象を語っているものが多い。というわけで、わたしもそろそろ人物評重視の批評を書いてみようか、自由に印象を書いてみようか、そんな気がしている。

 人物の性向について、批評家は想像力たくましくあれこれ憶測しているわけだが、詩人にとっては自分の人生・性向はかけがえのないものである。だから、詩人はなるべく誤解されたくないのだと思う。詩人は、自分を正しく理解してもらいたい。だから、その欲求を著しく害するような批評は倫理的にまずいと思う。批評家には倫理が求められている。

テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

無関係のネットワーク
 二つの事象の間には、完全な無関係は成立しないのかもしれない。たとえば、風景を眺めていると、植物や建物が乱雑に配置されていて、それぞれは一見無関係のようにも思える。だが、それらの間に、前後・左右・上下などの空間的な関係を見出すことは容易である。

 たとえ空間的な関係を見出すことができなくても、時間的な関係を見出すことはできる。庭にある木と「犬が走る」という思考は、空間的な関係を持たないかもしれない。だが、木がこれまで持続してきた時間と、「犬が走る」という思考が持続した時間を比べれば、そこには時間的長短の関係を見出すことが可能だ。

 だが、完全な無関係は成立しなくても、限定された無関係は成立する。庭にある木と「犬が走る」という思考の間には空間的関係がない。それゆえ、そこには「空間的無関係」が成立していると考えることも可能だ。同じように、風景の構成要素間には因果関係がない場合もあるだろう。そんな場合は「因果無関係」が成立しているのである。

 事象と事象の間にどんな関係があるのかを調べるのではなく、どんな無関係が成立するのかを調べてみる。そのことによって、世界の陰画を調達することができるのではないだろうか。

テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

山頭火(1)
 山頭火の句を読むと、心のどこかに清冽なものが流れるような感じがする。いや、「清冽」というのは不正確かもしれない。矛盾しているが、温度を持たない冷たさ、即ち鋭さやじかに触れてくる感じ、を感じる。

逢ひたい、捨炭(ボタ)山が見えだした



 ここでは、無関係のものが同時に生起している。会いたい気持ちとボタ山には何の関連性もない。会いたいからボタ山が見えたのでもなければ、ボタ山が見えたから会いたいのでもない。

 だが、日常生活は、このような「無関係のものの同時生起」に満ちている。ラーメンを食べたいと思う。そして目の前には本棚がある。だが、ラーメンと本棚に何の関係もない。この句は、日常生活における、無関係なもの同士の偶然的な結合を読者に思い起こさせ、その結合の新鮮さと真正さを美として提示している。

テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術