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Author:sk
28歳。男。たまに詩を書いたりもする(筆名「広田修」)。哲学が好き。
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Albatros BLOG
日々の雑記。現代詩の話や哲学の話。文学や音楽、美術、芸術一般の話。ただただ書き捨てていくだけ。
音楽は1次元か?
 音楽は一次元で絵画は二次元、彫刻は三次元。こんなことが単純に言えるだろうか。

 彫刻は三次元だから表現としてはもっとも複雑なのかもしれない。だが、絵画が色彩豊かなのに対して、多くの彫刻には色彩が乏しい。色彩豊かな絵画と単色の彫刻を、単純に2次元・3次元というように区別して優劣をつけてしまってよいのだろうか。むしろ、色彩もまた芸術の一つの次元なのではないだろうか。

 だから、色彩豊かな絵画は、空間の2次元+色彩の1次元で3次元になり、単色の彫刻は、空間の3次元+色彩の0次元で3次元になる。こうなるとどちらも3次元で、単純に優劣はつけられなくなるように思う。

 さて、音楽が一次元というのは本当だろうか。ここで映像を考えてみる。映像は空間的には2次元だが、時間的な推移がそこに加わる。つまり、空間の2次元+時間の1次元で3次元になりはしないか。同じように、音楽は、音の1次元+時間の1次元で、2次元にならないだろうか。

 だが、一口に音といっても、音高・音色・強さ・持続という4つの要素からなっている。時間的である持続を除いても、3つの次元がある。さらに、人間は単一の音のみを聴くのではなく、複数の音を同時に聴きかつそれらを判別している。

 つまり、音楽には、音を構成する音高・音色・強さの3次元と、いくつかの音が同時に鳴ることを許容する広がりが1次元、さらに持続という時間の次元が1次元加わり、全部で5次元になるのではないか。

 とはいっても、視覚イメージにおける空間的次元と聴覚イメージにおける次元を同列に扱うことには原理的な問題がある。さらに、空間の次元に単純に色彩や時間の次元を足し合わせてよいのかという原理的な問題もある。そもそも、異なる芸術様式を、次元などという雑な概念で分類すること自体間違っているのだ。
図書館に行った
 「安東次男詩集」「シュトックハウゼン音楽論集」「ヘルメスの音楽」を返却。

 シュトックハウゼンは、音楽についてだいぶ深く考えていたようだ。哲学的ですらある。音楽家がこれほど理論的にものを考えているとは思わなかった。理論的に音楽を作り出すところに彼の現代性があったのだろうか。あまり読めなかったのが残念だ。そういえば今、芥川也寸志の「音楽の基礎」を読んでるのだが、音楽の理論性に驚いている。

 「ヘルメスの音楽」はバリバリの印象批評である。評論というよりはむしろ散文詩だ。こういうのもありなのね。いつか書いてみようかな。
 音楽の本質として「メタリック」であることを挙げているが、これは、私が音楽の本質に根ざすと考えている「明るさ」と通ずるものがあると思う。また、私は音楽の運動を「追跡」としてとらえていたが、彼は音楽の運動を「逃走」ととらえていて、おもしろい。追跡は同時に逃走でもあり、逃走は同時に追跡でもあると思う。

 オクタビオ・パス「弓と竪琴」、岩波講座「現代の法1 現代国家と法」を借りてくる。詩論の有名どころを丁寧に読もうと思っている。また、これから法律学の論文を書くにあたっての見本として、法律学の講座ものを借りてきた。
「安東次男論」(2)
 渋沢によると、終戦後の廃墟は詩の成立のための空無を「現実」に置いた。だが、詩を書くためには、この現実の空無を詩の成立のための根源的な空無にまで深化させなければならない。

 また、安東の特徴は、過去への遡行という後ろ向きの視線を設定することで、現在に虚の空間を生み出したことにある、と言う。そのことにより現実の空無化が達成される。そして、さらに、それによって作品のための新しい現実というものを得ることができる。

 だが、「現実の空無」と言われても、漠然としてつかみどころがない。それは、物質的にものが乏しいということなのか、あるいは行為に結果が伴わず虚しいということなのか、あるいは経験から現実感が失われてしまったことなのか、あるいは現実世界になんら感性を刺激するものがないということなのか。

 詩の発生に必要な空無とは、おそらく、現実から目をそらし想像力を働かせることから生じるか、現実を再構成するために一度解体することから生じるか、のいずれかであろう。詩人は現実をありのままに書くことは少ないからだ。

 つまり、詩を書くためには、一度現実を虚しくする必要がある。戦後の廃墟は、現実を虚しくすることで、詩を書くための条件を外部から整えてくれたわけだ。

 安東の過去への遡行は、現実の空無化を生むが、この空無化は、詩の成立のための空無化とは異なる。まず、詩人は詩を書くために現実を虚しくする。その空無にもとづいて、過去に遡行する作品を書く。その結果として現実の空無化が生まれるわけだ。つまり、過去の遡行により生まれる空無は、詩の成立の前提ではなく、詩の成立の結果なのである。ただ、それが次の作品を書くための前提となる可能性はある。

テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

デッサン
 パソコンの後部とディスプレイをつなぐコードが、折りたたまれていたときの名残で、いろんな方向に、いろんな度合いで折れ曲がりながら伸びている。

 私は、この事実だけで俳句が作れると思った。私はそのコードのあり方に何やら豊かさを感じ取ったのだ。人為と自然とが、調和すると同時に分裂している、その豊かさである。

***

 足音が歩行のリズムとぴったり一致していることの不思議さ。歩行は、足を上げ、関節を曲げ、手を振り、足を前へと動かし、また足を下げる、一連の運動の過程であるが、その運動群の一まとまりを区切るものとして足音があるのだ。だから、足音が歩行のリズムに一致しているのは当たり前である。

 だが、私には、足音と歩行のリズムは何か別のもののように感じられ、それが偶然一致しているかのように感じられた。その偶然の一致の発見の驚き。

***

 心が屈折している人には、屈折している人なりの美学というものがあってもいい。

 まず、「屈折は純粋に悪意と憎しみで満たされなければならず、そこに感傷を紛れ込ませてはいけない。」屈折している人間はたいてい傷ついているのだが、その傷から湧く感傷的な悲しみに浸ってはいけない。

 次に、「屈折をなるべく人前にさらしてはいけない。」屈折を吐露することはなぜか慰めをもたらす。安易に慰めを求めてはいけない。

 だが、そんなことを考えていたら、窮屈になってきた。なにか硬いものにのどがふさがれるように感じた。禁欲的な美学って窮屈だね。
「安東次男論」(1)
 渋沢孝輔によるもの。

 渋沢は、安東の詩業について、

(1)語りの根源への遡行
(2)詩作品の成立の条件の探索やその自立的な生成
(3)詩作品が現実の中で担う意味についての顧慮

という三つの志向を挙げている。(1)が一貫しているが、それは(2)と(3)の二重性によって覆われていた、としている。

 だが、「語りの根源への遡行」とは何だろうか。「語りの根源」とは? 渋沢はその点について明らかにしていないので、その意味においてこの文章は欠点を持っている。渋沢は、「語りの根源への遡行」が「現実の中にひとつの橋を架ける」ことを孕んでいるかどうかという問題を提起しているが、「現実の中にひとつの橋を架ける」という表現も比喩でしかなく、何を言いたいのか良くわからない。

 まず考えられるのは、「語りの根源」とは「語りの原初的なあり方」を指す、という考え方である。歴史的に語りが発生したばかりの段階での語りのあり方へと語りを遡行させることだ、と解釈するのである。

 もう一つは、「語りの根源への遡行」とは「語りとはそもそも何であるか」という原理論に遡行することだ、という考え方である。語りにはどのような主体・客体がかかわっていて、それらがどのような構造を作り出しているか、また、語りそのものの構造・機能はどのようなものか、そういった哲学的あるいは言語学的な探求への遡行である。


 私は、詩を書くにあたって、もっぱら(2)、つまり詩の成立の条件ばかりを考えてきた。こうすれば詩になるだろう、こういうのも詩になるんじゃないか、そんなことばかり考えてきた。だが、詩の根源や、詩が現実の中で担う意味についても考えなければ、詩について全体的な理解をすることはできない。そのことに気づかされた。

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難解な詩を書いた人は
 倫理的な説教をするのはあまり気が進まないのだが、思いついたので書いてみる。なお、私はこの考えを人に押し付けるつもりはまったくない。ただの思考のお遊びだと思ってもらいたい。

 相手に不利益を与える主体は、(1)その補償として相手に利益を与えるか、(2)自分もまた同じだけの不利益を受けるか、しなければならない。例えば国は国民に税金という不利益を課しているが、それに見合っただけの公共サービスという利益を提供しなければならない。

 難解な詩を書いた人は、読者に読解の負担(一種の不利益)を与える。だから、その人は、(1)その補償として読者に何らかの利益を与えるか、(2)自分もまた不利益をこうむるか、しなければならない。

 今、難解な詩を書いた詩人に対して、読者が、その詩人の意図からずれるような解釈を提示したとする。そのとき、その詩人は、「それは的外れだよ。君は読解力がないね。」などと言ってはいけないのである。その詩人は難解な詩を書くことで読者に負担を与え、その上読者をけなしてさらなる不利益を与えている。これは倫理的に許容されない。

 その場合、その詩人は、その読者に対して感謝の意や敬意を示すことで(1)補償としての利益を読者に与え、またそのような誤読をも甘受することで、(2)自分もまた不利益をこうむらなければならないのである。

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「ある詩人=批評家の方法」
 安藤元雄による安東次男論。この文章から、いくつか批評のテクニックをさらってみたい。

そういった事情が、多かれ少なかれ、あの時期に、伝統的な日本語の文脈とは一応切り離された場所に自分を立たせて表現への意欲を燃やしていた人々にあったのではなかろうか。


ここでは、詩人を、同時代の他の詩人たちと比べている。同時代の他の詩人たちの一般的傾向を記し、当の詩人がそれに対して同じ傾向を持っていたのか、違う傾向を持っていたのか比較する。これは批評のひとつの技法だと思う。

自分自身が本気で信じていない体系の中で自分自身を表現しなければならないとき、人はまず、その体系の修正を試みることから始めるものだ。


人間は何か活動をするとき、何らかの枠組みにしたがって活動している。その枠組みが、当の活動を十全なものにできないとき、人はそのよってたつ枠組み自体を再編しなければならない。詩人の作品だけを見るのではなく、その作品のよってたつ枠組み(この場合は言語)にまでまなざしを向ける。これもまた批評のひとつの技法であろう。

この冷静さ、この安堵感、それはおそらくすぐれた読み手であることを数多くの評論によって立証したこの詩人が、自分自身の書き記す言葉をもついに自分の読み方のうちに収めえた、というところから来ている


詩人を、書き手としてだけではなく、読み手としてもとらえる。そして、読み手としてのあり方が、書き手としてのあり方にどう影響したかを記す。これもまた批評の技法のひとつであろう。
「西田幾多郎の生命哲学」(4)
<現在という流れの体系性は、潜在的な差異によって作られている。潜在的な差異が分化して現実化すると流れではなくなる。>

<この潜在的な差異とは、「内面的潜勢力」のことである。というのも、力もまたそのものとしては潜在的なものであり、それが現実化したときは痕跡にしかならないからである。>

<ベルクソンにおいては、潜在的な差異とは、現実世界の多様な変化を生み出す未決定性という力である。>

<さらに、潜在的なものとは「概念の一般性其者」である。個体として実現される事態の背景に横たわる全体である。>

 さて、この箇所に見られるのは、厳密な演繹ではなく、アナロジーによる概念の偶然的な拡張である。潜在的な差異は確かに潜在性において力に類似する。だが、力が結果を引き起こす動的な原因であるのに対して、差異は静的な関係であり、結果を引き起こすものではない。

 西田はどうやら潜在的な差異そのものが力として変化を生み出すと考えているようだが、潜在的な差異は必ずしも自ら変化を生み出す必要はない。変化は潜在的な差異ではない外的なものの力によって引き起こされるのだと考えても良かったはずである。

 力は現実化すると、力そのものではなく、ただ力の痕跡となってしまう。だが、力は自ら現実化するのであって、他の何者かの助力を得るのではない。それに対して、潜在的な差異が顕在化するとき、人間の認識というものが介在する。潜在的な差異は自ら現実化するのではないのである。

 「潜在的な差異」と「力」を安易にアナロジーで同一視するのは危険すぎる。

テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

安東次男を読む(1)
 安東次男の詩は美術品というよりも工芸品に近い。目に媚びてくる装飾はほとんどない。安東の比喩を読んだときの印象は、煙草を喫ったときの印象に近い。微細な流れと肉化の過程。抑制された豊かな香り。比喩は作品から突出しようとせず、半ば実用的な意味を提示している。

いつ たれが
季節の外にあるのか
僕ではない
垂れこめる
気抜け雨のなかで
水晶のように
透明になるミミズたち
刑死した花ザクロ
存在たちの
影と
幼児の笑い声
そして
蓋のない壜の口から
溢れおちる水たち

それに手を触れるな!

  ――「鎮魂歌」


 安東の無表情なまなざしは、おもむろに動き出す。安東のまなざしは、対象を突き抜けてその先を見てしまう。ミミズは透明になり、花ザクロは刑死して、壜からは際限なく水が湧き出てくる。

 本当は、普通のミミズや花ザクロがあるだけかもしれないし、壜の水は静止しているのかもしれない。だが、安東は、現象の先端をさらに延長して、論理的可能性の世界にまで踏み込んでしまうのだ。そして、論理的可能性の世界の事物を、現実世界へと持ち帰ってくる。彼にとって、そのことにはなんの違和もない。

 死者の魂を鎮めるはずの鎮魂歌に、なぜ「それに手を触れるな!」という激しい禁止の命令が含まれるのか。それは、安東自身が死者に擬せられているからだ。安東自身の魂を鎮めるために、彼の作り出した危うい世界は安全に保たれなければならないのである(かなりの曲解のような気もするが)。

 彼の作り出した現実と虚構の混和した危うい世界は、彼の感情と相互浸透している。彼の作り出した世界を彼の感情が満たし、彼の感情は彼の作り出した世界に支えられている。誰かが彼の作り出した世界に触れることは、彼の感情に触れることにほかならず、彼はそれに耐えることができない。

 現実と虚構の混和した世界を作り出すのは詩人としての安東の自己確認であり、作品は安東のアイデンティティの記号である。それが害されずにあることは、詩人としての安東の魂を慰め続けることになるのである。

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瑣末なこと
 果樹園の桃の木を揺らしてみた。意外なことに、緩やかに揺れ始めた。一度揺れ始めた桃の木の揺れは強固で、もはや止めることができない。桃の木は、量感のある揺れをしばらく続けていた。揺れ幅はだんだん小さくなっていくので、揺れがいつやんだのかはわからなかった。

 自然に、ほぼ無意識に口ずさむ歌がある。歌い始めた後に、何かをかぶせるように、歌い始めた自分を認識する。そして、その歌ばかり口ずさんでいることに気づき、違う歌にしようとする。だが、違う歌を歌うことには何やら抵抗を感じてしまい、結局違う歌を口ずさみ始めても、ざらつきのようなものとの摩擦を感じ、それが軽い不快感となる。

 剪定された枝を燃やしたのだが、積み重ねられた枝たちは、主に中心部が燃えて、周縁部には燃え残ってしまう。燃え残った枝たちを、妹が蹴って中心へと移動させていた。私は「お前の蹴りには殺意が足りない」と言った。気づかないうちに、殺意は私のアイデンティティの一部になっていた。妹のアイデンティティには、まだ殺意が入り込んでいなかった。
本ばっかり読んでて疲れた
 音楽を聴いても束の間しか癒されない。でも何か書こう。

 人間にとって身近な「構造」は、空間的な構造だと思う。上下、内外、混合、平行、垂直、層、表裏、高低、角度、直曲、離合、集散、運動、などなど。これらのイメージスキーマをもとにして、批評を書くことができると思う。

 作品を読むことから何らかの構造を読み取る。これが正当な批評のあり方なのだろう。だが、先に構造を選んで、その構造に当てはめていくように作品を読んでいく、あるいは作者について想像する。それもまたひとつの方法ではないか。

 例えば、あらかじめ「離合」という観点を設定する。そして、例えば、作者の叙情精神と叙事精神が作品のこの箇所で合わさり、この箇所からは離れていく、そのような読みをする。あるいは、ある作者において、この詩集の段階ではまだ傾向Aと傾向Bが合わさっていたが、この詩集の段階になるとAとBが明確に分離していく、そのような読みをする。

 カントのカテゴリー表みたいに、あらかじめ空間的な構造というものを列挙しておく。批評をするときにはその中から適宜よさそうなものを選んで、その構造に当てはめるように批評をしていく。これは邪道なのだろうか。

「西田幾多郎の生命哲学」(3)
<感覚や知覚は思惟などに比べてより直接的である。それは現在と結びついているからだ。>

<現在とは流れであり、様々な部分(知覚の対象、身体の運動など)に分かれながらもそれぞれの部分が一連のものをなしてひとつになって動いていくようなあり方である。現在は厳密に統一され、体系性を形成する。>

<それゆえ、現在には範囲がある。だが、統一された全体という場面を視野に入れるなら、範囲は無限に広がりはしないか。範囲が広くなってしまうと、それはもはや現在とは呼べなくなるのではないか。>

 現在が流れであるというのはわかる。だが、それを、体系性を備えた厳密な統一体である、と言ってしまってよいのだろうか。

 純粋経験の議論では、「私」が成立する以前の主客未分化の経験が論じられていた。純粋経験が現在に根ざす以上、現在もまた未分化のものとしてとらえるのが自然ではなかろうか。

 現在の流れに厳密な統一性を見出すとき、すでに「私」は成立してしまっている。客体の構造を認識するとき、すでに主体は出来上がってしまっているのだ。

 だから、いきなり現在が統一体であることを言い出すのではなく、まずは現在もまた未分化の混沌とした流れであることに言及し、主体の成立に媒介されて初めて客体としての構造を持つにいたる、という点を強調したほうが良かったのではないだろうか。

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なぜ季語なのか
 季語の入った通常の俳句はすべて抒情詩である。つまり、一定以上の強さの情緒的印象を読者に与える(この場合「情緒的印象」とは、発見や認識に伴う喜びのような知性を媒介にしたものを除く)。なぜかというと、春夏秋冬という情報に対して、日本人は情緒的に比較的強く反応するからである。

 俳句の形成を<季節>という上位カテゴリーが支えている。<季節>の下位カテゴリーとして、{春、夏、秋、冬}がある。さらに、「冬」などに対して、それぞれの季語(「木枯らし」など)がさらに下位のものとして関係付けられている。

 だが、俳句を支えるものとして、何も<季節>に限定する必要はなかったのではないか。例えば<植物>でも良かったのではないか。

 <植物>の下位カテゴリーとして、{木、草、花}がある。さらに、「木」などに対して、それぞれの(季語ならざる)「植物語」が関係付けられる。例えば「松」など。そして、俳人は、句のどこかに必ず「松」などの「植物語」を入れなければならない。

 しかし、俳句を支える上位カテゴリーとして<植物>を採用したときには、不利な点がある。

(1)確かに「花」に関係付けられる「百合」などの「植物語」は、読者の情緒を強く触発する。だが、「木」に関係付けられる「松」などはそれほど情緒的印象は強くない。

(2)句の中に必ず「植物語」を入れなければならないとすると、句の可能性がだいぶ限定されてしまう。人間の生活には植物と無関係な場面のほうが多い。

 それに対して、<季節>を採用すれば以下のようなメリットがある。

(1)季節を想起させる季語が読者に与える情緒的印象は比較的強い。

(2)人間の生活のどんな場面も季節の中にある。それゆえ季語は、自然の風物から、人間の道具、人間の行為にいたるまで、多様なものが許容され、そのことにより句の可能性も広くなる。

 俳句は季語を採用することで、定型性だけでなく、一定以上の強さの抒情性と、句の多様性をも獲得することができたのである。

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「西田幾多郎の生命哲学」(2)
<身体の非人称性や欲望の無意識性といった議論は、「私」を最初に立てて、そこから非人称的身体や無意識を取り出す、という方向性を持っている。>

<それに対して純粋経験は、基底に見出されたり外部に探られたりするものではない。それは初めから肯定的にあって、その中から「私」や「対象」が限定されるのである。>

<それゆえ純粋経験の議論は、ある意味独我論からの解放である。独我論は、世界に存在するのは「私」だけであり、「私」が世界の中心で事象はすべて「私」の意識から生まれると考える。それに対して西田は、「私」は、純粋経験という変容するシステムの一側面としてそこに含まれているに過ぎないと考える。>

 初めに「私」があるのか純粋経験があるのか、という議論には意味があるのだろうか。

 初めに「私」がある、とする説は、まず「私」の守備範囲を明確にする。その後で、「私」の守備範囲を外れるものとして身体の非人称性や無意識というものを発見する。ここでは、「私」と「私」以外との時間的先後関係は問題にされていない。「私」と「私」以外の支配する領域が問題にされているのだ。

 一方で、初めに純粋経験がある、とする説は、「私」の成立の時間的経緯を問題にしている。時間的には純粋経験が「私」に先立つことを主張しているようだ。ここでは純粋経験と「私」の守備範囲の問題は二次的なものである。

 初めに「私」がある、という説は、「私」と純粋経験の守備範囲を主に問題にし、初めに純粋経験がある、という説は、「私」と純粋経験の時間的先後関係を主に問題にしている。この二つの説は、同じ問題を扱っているわけではないから、特に矛盾はしない。

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高井有一「半日の放浪」
 文芸文庫の高井有一「半日の放浪」読了。短編が7編収められていた。

 今日、私は「文学的な木の棒」に出会った。実家には、小さな屋根のついた塀があって、蔵などがある家の裏手の領域とその外側とを区切っている。その塀に一本の木の棒が立てかけてあったのだ。

 その棒は、上のほうは塀の屋根のおかげで乾いて白っぽかったのだが、下のほうは雪を受けて湿り黒ずんでいて、その黒地に雪片が斑点のように付着していた。湿った領域から乾いた領域へと向かう境界では、雪片がまばらになり、色も中間的な微妙な色合いだった。

 この木の棒は、日常的でありながら、決して紋切り型ではない微妙なあり方をしていた。その微妙さに私は文学を感じた。

 高井の小説には、この木の棒のような事物ややりとり、出来事が描かれている。日常性を保ちながらも、定型性から免れ、繊細微妙であり、それゆえ単純なトリヴィアリズムから免れている。
斜に構える
 同人誌のための原稿を書くにあたって、詩史・詩論の本を数冊読もうと思っている。「蕩児の家系」なんかを読み始めた。あと、認知言語学をベースに詩学の文章を書きたいと思うので、認知言語学に関する本も数冊読もうと思っている。

 今までずっと、詩に対しては斜に構えてきたのに、これからはまじめに向き合わなければならないのかもしれない。そのことに対して、少し危機感を抱いている。

 というのも、私は何かに対して斜に構えていないと生きていけないからである。自分がほとんど関与していない分野に対して斜に構えても意味がない。ある程度深く関与している分野に対して斜に構えていないといけないのである。

 かつては法律に対しても斜に構えていた。だが、将来法律を生業として生きていくのだからそれではいかんということで、法律についてもまじめに向き合うようになった。

 法律が消えて、詩も消えるのだとしたら、いったい何に対して斜に構えたらよいのだろう。ひとつには、社会や集団に対して斜に構えるということが考えられるのだが、これから社会に出て行くのだから、いつまでも不良少年じみた態度はとっていられない。結局、斜に構える対象がなくなってしまうことになる。これは危機的状況だ(笑)。

 斜に構える悦びは、シニシズムの悦びである。シニシズムの悦びは、攻撃や破壊や否定の悦びに通じている。人間誰しも、何かを攻撃・破壊・否定しないでは生きていけないのではないだろうか。実際、誰しも何かを否定しながら生きていると思う。
keep out
 私は、ブログでは、何やらシンキくさくクソマジメなことばかり書いているが、もちろん日常生活はこんな感じではない。「日常生活においては、文学や学問はしめだされている。」

 例えば、美術展を見て家に帰る。そのとき、家族には、「いや〜、すごかったよ」くらいのことしか言わないし、そのくらいのことしか「言えない」。そのようなシチュエーションでは、「生命と非生命の相克が空間的に可視化されていたよ」などといった文学的なことは絶対に言えないのである。

 同じように、例えば、友達と買い物をしたときに、「これは法律的には現実売買と呼ばれる契約の一種で」などと説明を始めては「いけない」。よっぽど親しいか、相手もまた法律を勉強をしているか、のいずれかでないと、自分は変人扱いもしくは「ウザいヤツ」扱いされてしまう。

 しかし、文学や学問が日常生活から締め出されているのはなぜだろう。この現象には実に多くの要因がかかわっている気がする。日常生活の負荷をできるだけ小さくしようという全体的な傾向。知識や感性をひけらかすことに対する反感。世の中の人々のmajorityが文学や学問をよく解さない人であること。などなど。ぜひともこの現象を、心理学者や社会学者に分析してもらいたいものだ。
同人誌を作ります
 このたび、詩誌「kader0d」(カデロート)を発足させることになりました。夏ごろ発行の予定ですが、それ以降になるかもしれません。

 確定した参加者は、広田修、伊達風人さん、佐藤雄一さん、白鳥央堂さん、久米一晃さん、佐原怜さん。ほかに、良い詩が書けたらゲスト参加してくださるという方が一名、連絡の取れない方が一名います。なので、最大であと二人増える可能性があります。

 参加者の皆さんは、本当に才能のある方ばかりなので、とても期待しています。僕も、他の参加者の方々に引けをとらないように、精進しようと思います。

 この雑誌は散文、特に批評を重視するというコンセプトで作りました。なので、参加者の方々には、毎回最低一編の散文を書いていただきます。散文の内容は自由で、詩の批評や詩論・詩学のほかにも、エッセイ、美術評・音楽評・映画評、小説、なんでもありですが、僕は毎回批評や詩論など詩に関する文章を書きたいと思っています。また、佐原さんという強力な批評家が参加してくださることで、参加者の批評精神が刺激されること間違いなしです。

 今のところ、これ以上同人を増やすつもりはありません。ですが、今後どのように変遷していくかはわかりません。
「愛の歌」など
 ルイージ・ノーノの「愛の歌」は、愛の生理的・物理的側面を表現しているか、神の愛を表現しているか、のいずれかである。恐らく人間の精神的な愛を表現しているのではない。人間の精神的な愛に伴う喜びや優しさといった肯定的な価値付けはそこにはない。無機的な荘厳さがあるのみである。

 あるいは、次のように考えることもできる。「愛」は、これまで数多の愛の歌によって、犯され破壊されてきた。ノーノは、愛の歌たちによって破壊され尽くした「愛」の残骸の悲惨さを表現しているのだ、と。あるいは、愛の歌たちによって犯される「愛」の悲痛な悲鳴を表現しているのだ、と。


 「小説的な詩はよくない」と考えている人は結構いるはずだし、私もかつてはそう考えていた。小説的な詩を書くのだったら初めから小説を書けばよい。小説を書く体力のない人間が安易に詩という表現形式に逃げるのは好ましくない、とさえ思っていた。

 だが、小説的な詩の「断片としての価値」を積極的に知らしめてくれる作品というものがある。例えば安東次男の「佐渡」である。

 「断片としての価値」は、作者サイドにもあるし、読者サイドにもある。作者は、余分なものを削ぎ落として、本当に伝えたいこと、重要なことに焦点を当てることができる。人間の情報処理能力は限られているから、重要なことだけを書こうと思ったら断片にならざるを得ない。もちろん断片を接いでいくことは可能だが。読者は、少ない情報量に多くの精神活動をつぎ込むことによって、作品の内容を深く理解し、様々な感動や認識の種を多く発見することもできる。

 断片であることは、人間の情報処理能力が制限されていることとうまく適合している。
最近の日常
 大学院入試が終わって、それに続く倦怠期も抜け出して、最近はそれなりに充実した日々を送っている。

 基本は、法哲学と法社会学の勉強である。読んでいるテキストはけっこう密度が高く、読み応えがあり、楽しい。それに加えて、知的財産法と民事執行法・民事保全法の勉強も始めた。これらが生活のメインである。

 勉強の合間に、小説を読む。戯曲を読む。哲学書を読む。詩集を読む。音楽を聴く。社会学と認知心理学の勉強もしている。

 あと、金曜日と土曜日はラジオでフランス語講座とドイツ語講座の応用編を聴く。自宅にいながら語学が勉強できてよい。金曜と土曜の午前は、その予習に費やされる。

 ある方に詩集を送っていただいた。その批評を書くために少しずつ読んでいる。この方の作品は、表面は乾いているのだが内側は豊かに潤っているという印象である。呼吸をするように言葉をつづっているような印象。これ以上は批評に書きます。

 メルマガも気まぐれに配信している。純粋理性批判を自分なりに丁寧に読んでいる。読んでくれている人は、全部で160人ぐらいだ。
戯曲における発話
 チェーホフ「桜の園」を読んだ。

 思うに、戯曲における発話は以下のように分類できる。

1.1 話者が独り言のつもりで言ったもの
1.2 話者が相手に伝えるつもりで言ったもの

2.1 相手が内容を受け取るもの
2.2 相手が内容を受け取らないもの

2.1.1 相手が内容を受け取り、それに対して反応(発話・行為)するもの
2.1.2 相手が内容を受け取るが、特に反応しないもの

3.1 相手の発話に触発されたもの
3.2 特に相手の発話に触発されることなく、自発的に発されたもの

 発話を光で喩えることができる。話者は光源であり、相手は対象である。光の比喩で、上記の分類を書き換えてみる。

1.1 特に何かを照らそうともしない光源から発された光
1.2 何かを照らす意図の下で発された光

2.1 対象が照らされる場合
2.2 対象が照らされない場合

2.1.1 対象が照らされ、著しく反射する場合
2.1.2 対象は照らされるが、大して反射しない(吸収する)場合

3.1 対象によって反射された光
3.2 光源によって自ら放射された光

 戯曲における発話の運動は光の放射と反射と吸収に対応する、と考えると少し面白い。
マリネッティの発言
 マリネッティは、「未来派宣言」において、「サモトラケのニケよりもうなりをあげて走るレーシングカーのほうが美しい」と書いたそうである。だがこれは、そもそも比較できないものを比較してしまってはいないだろうか。

 ニケ像は静止している。一方で、走るレーシングカーは運動している。運動しているものと静止しているものを、美的に比較できるのだろうか。

 例えば、ダンスを考える。ダンスの美しさは、主に運動の美しさである。ダンサー自身の容姿の美しさは、運動の美しさとは別次元に属する。だから、醜いダンサーでもダンスの運動は美しいかもしれないし、美しいダンサーでもダンスの運動は醜いかもしれない。

 仮にマリネッティが、「ニケ像」と「レーシングカーの運動」とを比較しているのなら、それは静止したものの美と運動の美とを比較しているので、原理的に不可能である。

 だが恐らくそうではない。マリネッティは、あくまで「ニケ像」と「レーシングカー」を比較しているのだ。ただ、レーシングカーは運動しうるのであり、その運動可能性が一つの積極的価値として、レーシングカーの持つ美的価値に追加されるのだ。ここでは運動可能性という価値が、美的価値に変換されている。

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井上光晴「地の群れ」
 川西政明の解説が、本質的な深い認識を提示しているので、私ごときが今更何を書くことがあろうか、といった具合である。詩の批評よりも小説の批評の方が面白いのはなぜだろう。それでも、自分なりに思ったことを書き留めておく。

 「地の群れ」とは、戦争を通過しながらも生き残ってしまい、差別したり憎悪したり嘘をついたり真実を隠蔽したりという、生活にまつわる悪を遂行せずにはいられないような人々の群れである。

 この小説は長崎の原爆に関したものだが、その悲惨さを訴えるような社会的な意図を持ったものではない。犠牲者を聖化するのではなく、むしろ生き残った犠牲者のあまりにも低俗な生き方を描いている。

 だからといって、そこに生命の賛歌があるわけでもない。安易な積極的評価をすべて拒絶するところに、つまり低俗な楽観的精神を弾劾するところに、この小説のあまりにも美しい悪意の本領がある。この悪意はきわめて真摯なもので、豊かですらある。

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「セリー主義」
 ブーレーズ、ノーノ、シュトックハウゼンの曲が収められたCD。

 現代音楽はどれも似たり寄ったりに聴こえる。これは、音の並びをうまく認識できないからだと思う。人の耳に心地よいメロディーを、人はしっかり認識できるし、頭の中で反復することができる。それに対して、現代音楽の音の並びは、メロディーを否定しているので、人はそれをしっかりrecognizeすることができず、頭の中で反復することもできない。

 メロディーというものは一つの定型で、言語でいったら単語に相当するのではなかろうか。言語においてある一定の音素の集まりが辞書に登録されているとき、ひとはそれをしっかりrecognizeすることができる。それに対して、音素の集まりが辞書に載っていない、例えば聞いたことのない外国語の単語のようなものを、人はしっかりrecognizeすることができない。同じように、音楽において音の並びがメロディーという定型をなしていないと、人はそれをしっかりrecognizeできないのである。

 それでも、静寂がどれほどの割合を占めているか、また、音の変遷の速度、さらには、緊張と弛緩のリズムなどで、現代音楽の作品は区別することができる。

 現代音楽における「破壊」は、一筋縄ではいかない。破壊的であればあるほど、その作品の根底には不動のテーマのようなもの、眠りのような静的なものがあるように思えてならない。あるいは、現代音楽はすべて虚無を表現しているのではないかとさえ思えてくる。あるいは、「虚無を表現する」という矛盾をさらに表現しているのかもしれない。

 いずれにせよ、強迫観念のように静寂を埋め、メロディーや和音に執着する従来の音楽に対して、現代音楽は一つの安らぎを与えてくれる。それは、強迫観念や執着からの解放なのである。