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Author:sk
28歳。男。たまに詩を書いたりもする(筆名「広田修」)。哲学が好き。
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Albatros BLOG
日々の雑記。現代詩の話や哲学の話。文学や音楽、美術、芸術一般の話。ただただ書き捨てていくだけ。
更新
「詩と向き合う」更新。
繊細微妙であること

 このテーマでまともに書こうと思ったらかなり大変だと思う。文章を書くとき、いつも書ききれない部分がある。というか、書ききれない部分のほうが圧倒的に大きい。

 この連載は、初心者に分かりやすいように書いてくれとの依頼に基づいて書いている。文字数も2000字以内である。そぎ落としと丁寧で具体的な説明が必要である。

バスの中で

こういうのはどうなんだろうか。イロモノ・キワモノ扱いされるんだろか。こんなのばかり書いてるから、最近、その反動で、ふたたび正統派のものが書きたくなってきた。


これは、感性にしたがって素直に書いたもので、だいぶ軽い。私は、詩の原点ってこういうものだと思っているのだが、たぶんそれは考えが浅い。

 しかし私は抒情詩というものを書く気になれない。甘いものがあまり好きじゃない。もっと優しくならないと書けないのだろうか。感傷を嫌うところがある。

***

 高速バスに乗っていたら、座席の前(つまり前の座席の背面)に物を掛けるフックがついていた。このフックは回転させることができるのだが、右に回転させると「し」になって、左に回転させると「J」になる。

 「し」と「J」では、印象がだいぶ違う。「し」は柔らかくユーモラスで日本的な湿度があるが、「J」はクールで攻撃的である。ちょっといじくるだけで印象の違う別の文字に変わってしまうのが面白くて、私はフックを「し」にしたり「J」にしたりを何度も繰り返し、印象の変化と落差を楽しんだ。
kader0d予約受付
帰省しておりましたよ。無駄に時間を過ごしました。惰眠も貪りました。さて、

***

[kader0d本格始動!]

詩誌kader0dは創刊号発行にむけて本格的に始動しています。当誌は2007年1月
に広田修と伊達風人を中心にして創始された詩の同人誌です。詩誌ですから当
然詩に重点をおいていますが、それと同時に散文も重視します。詩と散文の交
通する場となることを目指しているのです。
同人には第11回テアトロ新人戯曲賞を受賞した久米一晃、去年、現代詩新人
賞の評論部門奨励賞を受賞した佐原怜。今月、第45回現代詩手帖賞を受賞し
た佐藤雄一(詳細にご興味がおありな方は現代詩手帖5月号をご覧になってく
ださい)、またユリイカ、現代詩手帖、ポエニークなどの投稿欄で活躍しその
実力を広く認められている、白鳥央堂、田代深子、伊達風人、広田修、志樹慧
香[交渉中]など豪華な名前が連なっています。
今のところ8月末の刊行を目指していますが、先行予約を受け付けています。
予約をされた方に限り定価¥600のところを¥400で販売致します。詳細にご興
味がおありの方はぜひ以下のサイトをご覧になってみてください。

http://kader0d.petit.cc/

***

ということです。今のうちなら安いよ。ちなみに今号には、佐原さんが現代詩新人賞の奨励賞を受賞した評論である大手拓次論が全文掲載されます。俺はともかく、ほかのメンバーはみんな才能があるから、期待して損はないと思います。
ひとことダイアリー
最近ブログが書けていないので、現代詩フォーラムで書いているひとことダイアリーを載せます。これで勘弁してください。

ーーーー

2007-04-22
雨って意外と速い。
2007-04-21
酒の席でまずいことを言ってしまった。反省。少し謙虚になろう。 / 今通った車の色を忘れてしまった。
2007-04-15
遠近法はとても自然な見方だと思う。なぜ発見されなければならなかったのか。
2007-04-14
明かりは闇を裏切っている。
2007-04-13
最初の一週間が終わる。この解放感。だがやるべきことは山ほどある。とにかく忙しい。
2007-04-12
サッシの外側に柵のようなものがついている。
2007-04-11
忘れ出したらきりがない
2007-04-10
マンションの間から川と崖が見える。
2007-04-09
定規の誕生日を祝う
2007-04-07
小さいドライバーしかなかった。
2007-04-05
法律家には倫理が要求されるらしいので、あまり過激なことは書けなくなった。心の中だけでつぶやいています。
2007-04-03
ビルは四角すぎて、ものたりない。いろんなものが省略されている。
2007-04-02
引っ越したらひとり
2007-03-31
木の枝は分かれるごとに細くなっていく。
2007-03-30
本などをどかすと、部屋の中に大量の埃があったことに気づかされる。埃は特に隠されてはいなかったが、ほかのものが目立つために注意から遠ざけられていたのだ。
2007-03-29
昨日も同じ水を飲んだような気がする
2007-03-27
引越しの準備をしてたら引き出しの奥にリストのCDがあったので、「死の舞踏」を何年ぶりかで聴いた。幸せなときはこういう曲は書けないよね。
2007-03-26
角川文庫の「俳句歳時記」を買う。この本、その季語を用いた代表的な句も載っていて、かなりお得な気がする。
2007-03-25
同人で集まった。我々は「ハードなメンバー」らしい。I.M氏が期待しているとのこと。
2007-03-23
今までプレイしたツクール作品は数知れず。ゲーム機を買わず、もっぱらフリーゲームで間に合わせている。
2007-03-22
春は不穏な季節だ。ミレーの「Spring」。
2007-03-21
比較的長い時間大きな音がなっていると、音がかなりの厚みを持った板のように感じられてくる。音がやんでも板は残るのである。
2007-03-20
枝の揺れは見えるけど風は見えない
2007-03-19
日差しがいくつもの日差しに分かれている。
2007-03-18
シューマンがけっこう好き。
2007-03-17
しかし、俺のブログ、うろんな記事ばかりだな。
2007-03-16
寺山修司の戯曲は凄いね。新しいね。(昔のやつだけど)
2007-03-15
引越しまであと二週間だ。ロースクールの勉強漬けの日々が待っている。今のうちに楽をしておこう。
2007-03-14
粟津則雄著作集がほしいのだが、高くて買えない。なんとかならんのか。
2007-03-13
ジョン・ケージのCDが届く。衝撃的だった。
2007-03-12
チェーホフは、恐らく人生がアイロニカルであることを熟知していた。そして作品の中に、意識的にアイロニカルな状況を挿入したのだと思う。
2007-03-11
何もしないでいることは苦痛で、結局いろんなことを始めてしまう。
2007-03-10
新しいパソコンが届く。設定が面倒だ。
2007-03-09
今日は何もしないですごしたい
2007-03-08
昨日友人と飲んだ。胃がもたれている。
2007-03-07
「蕩児の家系」を読んで、大岡信の批評力に感銘を受けている。mixiで大岡信コミュを作ってしまった。興味のある方は参加してみてください。
2007-03-06
今頃ミスチルを聴き始める。中学高校の頃は全然音楽を聴かなかった。
2007-03-05
毎日コーヒーを飲みます。依存しています。

民訴判例14
当事者能力と登記請求権

<事案>

 権利能力なき社団A連合会は前会長Y名義で土地建物を登記していた。その後Yは会長を辞任し、Xが会長になった。XはYに対して、代表者の交代を理由に所有権移転登記手続きを求めた。

 それに対してYは、Aが原告となるべきで、当事者適格のないXの訴えは違法であると主張。

<判旨>

 権利能力なき社団の資産たる不動産について、社団はその権利主体となりえず、登記請求権も有しない。よって、権利能力なき社団は不動産登記を申請できない。

 社団構成員の総有に属する不動産は、構成員全員のために信託的に社団代表者個人の所有とされる。よって、代表者は受託者たるの地位において、不動産につき自己名義で登記できる。

 新代表者は、信託法の信託における受託者の更迭の場合に準じ、旧代表者に対して当該不動産につき自己の個人名義に所有権移転登記手続きをすることの協力を求め訴求することができる。

ーーー

信託法50条1項 受託者の更迭ありたるときは信託財産は前受託者の任務終了のときにおいて新受託者に譲渡されたるものと見做す

信託法1条 本法において信託と称するは財産権の移転その他の処分をなし他人をして一定の目的に従い財産の管理または処分をなさしむるをいう

ーーー

<解説>

 民訴29条には二通りの解釈がある。

(1)権利能力なき社団自身に返還請求権などが帰属する。実体法の修正。
(2)代表者が構成員から信託的に委ねられた財産管理権限に基づいて、実体法上団体の名で返還請求などができる。代表者に返還請求権などが帰属する。実体法の修正はされていない。

権利能力なき社団が所有権の確認請求をする場合、(1)説によれば認められるが、(2)説からは認められない。(2)の場合は、団体構成員の総有権の確認請求をすべきことになる。

<雑感>

 判例の立場によると、実体法上の返還請求権を持たない主体が、訴訟上では返還請求をすることが認められることになりそうである。

 つまりこう言うことだ。権利能力なき社団の構成員が代表者に財産を信託する。代表者には、一定の目的に従った管理・処分権限が生ずる。だから、返還請求権も代表者に帰属する。ただ、訴訟の当事者は、便宜的に社団にしようということだ。

 だが、判例の立場では、代表者に当事者能力を認めるほうが自然であり、あえて社団に当事者能力を認める必要性は乏しいのではないか。実際、信託法3条によると、信託は公示(登録)を経なければ第三者に対抗できないから、信託はおそらくたいていの場合公示されるのではないか。だとしたら、部外者からも誰が財産の管理権を持っているかが分かるのであって、その管理権者(代表者)に当事者能力を認めれば十分だと思われるからだ。

テーマ:法学 - ジャンル:学問・文化・芸術

忙しい
 忙しくてブログを書くエネルギーがない。今日もこれから教科書を読んで課題をやらなければならないし。あと、明日までにドイツ語の法律を翻訳して提出しなければならない。専門用語が多くて訳するのがけっこう大変なのだ。

 ヘッドホンで音楽を聴いているのだが、音楽が耳元で鳴っているにもかかわらず、少し離れた舞台から音が聴こえてくるように感じられるのはなぜだろう。耳元で鳴っている音楽であるにもかかわらず、距離を感じさせるのだ。

 エレベーターに乗るということ。思えば不自然な移動だ。人間は高いところに上るためには、通常、斜めに移動しなければならないのに。直接的でありながら不自然であること。むしろ、直接的であるがゆえに不自然であること。間接的であるがゆえに自然であること。
近況
 たまには軽い記事でも。

 ロースクールの授業も始まって、毎日法律の勉強に明け暮れている。とにかくたくさん読んで理解して考えて覚えなければならない。主に授業の予習がメインだが、司法試験の勉強も始めないといけない。

 授業はそこそこ楽しい。私にとっては、レベルが高すぎもせず低すぎもせず、心地よい刺激になっている。授業の中で分からなかったところは、家に帰ってから調べて、ほかの人たちから後れを取らないようにしている。

 法学部を出て、旧司法試験の勉強を数年やってからローに入学するという人が結構いる。そういう人は、明らかに私よりも多く勉強しているわけで、私はそういった人たちからだいぶ後れをとっているわけだ。とりあえずはそういった人たちに負けないように、ひたすら勉強をするしかない。

 ロースクールは大学とはだいぶ雰囲気が違う。みんな必死に勉強している。自習室では殺気すら感じる。司法試験には一発で受かりたいものだ。
日常の不安

日常性そのものが、概念的に理解された、のっぺりした生活というものではなく、あらゆる細部に至るまで、なまなましく不安で、現実的なものであり、それゆえに異様な力をもって迫ってくる、ということの発見が、戦後の詩に及ぼした影響は、決して無視できない。

 −−「蕩児の家系」p255


 私は、日常の事物が「なまなましく不安」とまで感じたことはないが、日常の事物にかすかな不安を感じることはある。だが、この不安はたいていとりわけ意識されるものではなく、即自的である。

 例えば左手のほうにあるプリンターを眺めていると、その表面に不安の波立ちのようなものを感じたりする。不安な心理状態が視覚対象に移転したかのように感じられるのだ。

 だが、この不安には内容がない。「今にも壊れそうで不安だ」「本当に存在するかどうか不安だ」、そういった内容を持たない、純粋に情緒的な不安なのだ。この内容のない不安が時たま人を襲うのだが、不安の程度がかすかであることもあり、とりわけその不安が注意されることは少ない。

テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

憲法訴訟の目的
 戸松秀典「憲法訴訟」の1ページに、憲法訴訟の目的は「憲法上の価値の実現」であると書かれている。基本的人権、平和、国民主権、国際的協調、などの価値の実現である。

 だが、憲法訴訟の目的はそれだけにとどまらないだろう。民事訴訟の目的に、(1)私法秩序維持(2)紛争解決(3)権利保護 などがあったのに対応して、憲法訴訟の目的にも、(1)憲法秩序維持(2)紛争解決(3)人権保護 という目的があっても良いはずだ。

 また、「憲法上の価値の実現」が憲法訴訟の目的であるとするならば、民事訴訟・刑事訴訟の目的も、「民法上の価値の実現」「刑法上の価値の実現」と考えても良いはずである。物権や債権といった民法上の価値、刑罰権といった刑法上の価値を実現するのがおのおのの訴訟であると考えるのだ。

テーマ:法学 - ジャンル:学問・文化・芸術

微妙な瞬間
 自転車にいたずらをされて、前輪の空気が抜けてしまった。近くの自転車屋に行って直してもらった。修理が終わった後、店員は「105円になります」と言った。このときの店員の態度がとても微妙で、私にはそれが文学的に思われた。

 安価で修理することは、客に対するサービスではあるが、同時に客に負い目を持たせる。客は自転車屋に借りができるのだ。客はサービスを受けられると同時に負い目を負う。

 自転車屋はそれが分かっているから、一方では親切心から積極的に安い値段を言いたいのだが、他方では客に負い目を持たせることにためらいを感じる。自分のサービスを積極的に示したいと思うと同時に、それはどこかためらわれる。そのような葛藤の中で「105円になります」と口にするわけだから、自然と微妙な態度になるわけだ。
「詩人」
 最近、自分のことを「詩人」と呼ばざるを得なくなってきた。

 ロースクールも始まり、法律の勉強ばかりしていて、少しずつ詩から離れつつある。そんな自分を詩につなぎとめておくために、「自分は詩人である」と確認する必要が出てきたのだ。

 「自分は詩人じゃない」という主張には二種類ある。(1)謙遜によるものと、(2)違和によるものである。

 (1)のケースは、詩人というものを高い位置に設定して、自分はまだ到底その高みに達していないから、自分を詩人とは呼べない、と考える。

 (2)のケースは、「詩人」にまつわる社会通念と自分との乖離を強く認識しているがゆえに、自分を詩人とは呼べないと考える。場合によっては、一般に考えられている「詩人」というものを低く評価して、自分はそんなものにはなりたくない、と考えたりする。

 私は(2)のケースで、詩人をあまり尊敬していないから自分を詩人とは呼びたくなかった。(ここで「詩人」批判をするのは危険なので控えておく)だが、自分を詩につなぎとめておく必要、という特殊な事情から、不本意ながら自分を詩人と呼ばざるを得なくなってしまった。だが、詩や詩人に対しては、依然批判的であろうと思っている。これは自己批判でもあるからだ。
民訴判例13
<事案>

 Yは預託金会員制ゴルフ場の運営会社で、Xは同ゴルフ場の会員が組織する相互の親睦を目的とするゴルフクラブである。XY間の協約書の中に、Xのある機関にYの経理内容を調査する権限を与える条項があった。その条項に基づき、XがYに対して書類等の閲覧を求め本件訴えを提起。

<判旨>

・民訴法29条「法人でない社団」にあたるには、(1)団体としての組織を備え、(2)多数決の原則が行われ、(3)構成員の変更にかかわらず団体そのものが存続し、(4)代表の方法・総会の運営・財産の管理その他団体としての主要な点が確定していなければならない。

・「法人でない社団」にあたるためには、必ずしも固定資産・基本的財産を有する必要はなく、対外的に活動するのに必要な収入を得る仕組みが確保され、その収支を管理する体制が備わっているなどの事情を総合的に観察する必要がある。

<解説>

・排他的責任財産の創造のための法技術という点で、組合と権利能力なき社団は共通する。
(・共有:自由に分割でき持分を処分できる
(・合有:分割・持分処分できない
(・総有:持分が観念できず、構成員には収益の権能しかない

<雑感>

 権利能力なき社団に当事者能力を与えるのは不思議な制度であるが、訴訟経済の観点からは望ましいのだろう。だが、一般的な取引ができないのに訴訟だけはできるというのは、均衡を失しているような気がする。取引には強い団体性が要求されるが、訴訟にはそこまで強い団体性が要求されないということだろうか。

 むしろ、当事者能力も、社団の構成員に総有的に帰属すると考えればよかったのではないか。権利能力は与えないが当事者能力は与えるという違いの実質的な根拠が分からない。権利能力も当事者能力も与えるか、両方とも与えないか、のいずれかのほうがすっきりする。

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民訴判例12
<事案>

 Xは本件手形に振出人として記載されているY会社と裏書人Bを共同被告として、手形金支払いを求める訴えを提起。ところが、Yは、本件手形を振り出した直後に本店を移転し、商号を変更していた。Xははじめ振出人として記載されていた者を被告として訴状に記載したが、のちに、移転変更後の会社を被告にすると訂正を申し立てた。

<判旨>

・「当事者の変更」と「当事者の表示の訂正」は異なる。前者は確定された当事者の変更であり、後者は当事者の確定の問題である。前者は別人格者間の問題であり、後者は同一人格者間の問題である。

・本訴はY会社の代表者個人を被告としたものではなく、商号変更後のY会社を被告としたものであり、「当事者の表示の訂正」の問題である。

<解説>

・実質的表示説をとっている。当事者の確定に、訴えの提起時における要因をベースに、訴状の全般(当事者の表示欄のみならず請求の趣旨原因も)を考慮している。

・「当事者の特定」
 訴えを提起する際、原告の意思による。
・「当事者の確定」
 特定された当事者が誰であるか、裁判所が職権で調査し判定する。

<雑感>

 商号を変更するだけで、被告としての責任を免れることができるというのはあまりにも不当である。実体が同一である主体間では表示の訂正を認めたほうが原告の意思にかなっている。

 表示を実質的に捉えようとすると、原告の意思を斟酌する必要が出てくると思う。その意味で、実質的表示説は意思説を取り込んでいるのかもしれない。

テーマ:法学 - ジャンル:学問・文化・芸術

断言

詩とは無言に否定的に広がっていく世界への断言的肯定以外の何であろうか。(中略)否定的命題しかはらんでいない詩は、いわば散文の代用物でしかない。


谷川雁はこんなことを言っていたそうである。ここには二つのポイントがある。
(1)詩は断言である
(2)詩は肯定である

ここで平出隆の「胡桃の戦意のために」の冒頭を引用する。

晴れやかな地下鉄道。晴れ渡って涯しない壁。


さて、このような詩的想像に基づく描写は果たして「断言」と呼べるのだろうか?断言というからには、地下鉄道も壁も断固として存在していなければならない。だが、詩的な存在というものは、そこまで断固として存在しているものだろうか。むしろ、詩的な存在というものは、存在の仮象をまとうことにより、その根源的な不在を絶望的に指し示すものではないのか。

 次に、「詩は断言である」と「詩は肯定である」は、ある意味矛盾している。なぜなら、断言は否定だからである。人が「空が青い」と断言するとき、彼は同時に「空が赤い」「空が黒い」などを否定しているのである。

 「肯定」とはおそらく文法的な肯定文のことではなくて、現実であるとかイデオロギーであるとか、既存の事実・信念体系を受け入れることだと思われる。だが、A理論とB理論が対立しているとき、A理論を肯定することはB理論を否定することに他ならない。肯定は否定と表裏一体なのである。

 断言的肯定とは同時に否定でもあるので、谷川は結局詩が否定であることを克服できていない。谷川に限らず、誰でも詩が否定であることを克服することはできない。

テーマ:詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル:学問・文化・芸術

民訴判例11
(法律記事復活。興味のない人は読み飛ばしてください。これからこの手の記事が多くなります。)

 訴状に記載された被告Yが、訴え提起前に死亡していた事案。

<判旨>

 実質上の被告はYの相続人Zであり、訴状において表示の誤りがあっただけである。

<解説>

――
133条1項
 訴えの提起は、訴状を裁判所に提出してしなければならない。
2項
 訴状には次に掲げる事項を記載しなければならない。
 1号 当事者及び法定代理人
 2号 請求の趣旨及び原因
――

・訴状の記載が事後的に誤っていたとされるのは、
(1)死者名義訴訟(2)氏名冒用訴訟
であるが、氏名冒用訴訟のほうが、冒用者の不誠実性が高いので、不利益を課してもかまわない。

・当事者確定基準
(1)表示説:訴状の記載
(2)意思説:当事者・裁判所の意思
(3)行動説:当事者らしく振舞った人を当事者とする

・表示説に立つと、記載の誤りの場合、正当な当事者間の新訴の提起を求めることになる。これは原告に酷であり、訴訟経済上も好ましくない。従前の訴訟をできるだけ維持すべきである。

・ただし、従前の訴訟の維持に重点を置くと、訴え提起時において原告が被告の存在を確認する動機付けが弱まる。

<雑感>

 Zが被告として訴訟に携わっていたが、訴状に記載されていたのはYだった。だが、請求の趣旨原因に照らせば実質的な被告はZである。そういう場合には、訴状の記載に誤りがあっただけで、それを訂正すれば済むだけだと思う。

 当事者の確定に関する行動説というものは、常に妥当だとは思えない。例えば氏名冒用訴訟では、冒用者は、できるだけ当事者らしく振舞うわけだが、行動説によると、冒用者が当事者であるということになってしまいかねない。もちろん行動説内部ではそのあたりは修正されているのだろうが。

 原告は、被告に何らかの義務があることを主張する。義務が帰属するとされる主体の確定は、原告の意思に照らし、真に義務が帰属するかどうかで決せられねばなるまい。その確定のための資料として、事案を詳しく解明することが要求されるのかもしれない。被告として振舞っている者の行動だけで、義務の帰属主体を確定することは難しいと思う。

テーマ:法学 - ジャンル:学問・文化・芸術

法律への傾斜
 来週からロースクールの授業が始まるわけだが、私はすでに法律モードになっている。妙にテンションの高い奴が私の中に同居していて、私はそいつを冷めた目で眺めているのだが、ついついそいつにつられて行為してしまう。私は行動者であると同時に傍観者でもある。

 このブログも法律づくしになる危険性がある。法律は以前ほど嫌いじゃなくなった。むしろ面白い。岩波新書の神田秀樹「会社法入門」や、民事訴訟法判例百選などを読み始める。私は民訴、刑訴、会社法に弱いので、そのあたりを重点的に補充しなければならない。

 結局、自分の専門は法律で落ち着きそうだ。

細部にこだわる
文芸文庫の大庭みな子「三匹の蟹」読了。立原正秋「帰路」、熊野純彦「レヴィナス入門」読み始める。

物語の奥にある茫漠とした世界は、つかもうとすればするほど、指の間からすり抜けていく霧のように、冷たく流れていく感じが確かに指の腹をくすぐってあるのだが
 −−大庭みな子「トーテムの海辺」より


「物語」とは、ここではアラスカの先住民の民話のことである。だが、何もそれにこだわる必要はない。

 物語は、様々な程度で私たちから距離をとっている。私たちに最も近い物語は、自分の住んでいる地域の現在の物語だ。江戸時代の物語になれば、空間的な隔たりはなくとも時間的な隔たりがある。現在のアラスカの物語となると、時間的な隔たりはなくとも、空間的な隔たりがある。過去のアラスカの物語だったら、時間的にも空間的にも私たちから隔たっていることになる。

 物語は、不完全ながら、それ自体の世界を持っている。物語の依拠する文化や自然というものがあり、そこで様々な登場人物が様々な場所で様々に行為し思考し感受する。

 物語はすでに世界を持っている。では、「物語の奥にある世界」とはいったい何だろう。

 まず考えられるのは、物語の世界を包むような、より完全な世界である。物語は、例えばアラスカで起きる出来事のうち、ごく一部しか伝えることができない。物語には描かれなかったが、物語をも含む、より大きく細密な世界が「物語の奥にある世界」なのかもしれない。

 次に考えられるのは、物語の基底にある世界である。物語は、登場人物のある行為や発話しか描かないかもしれないが、実際はその根拠となるような人物の深層世界がある。物語は顕在的な出来事しか描かないかもしれないが、実際は、その出来事を生み出す社会的なメカニズムがあるかもしれない。そういった、表層的な行為や出来事を深層で支える構造やシステムが「物語の奥にある世界」なのかもしれない。

 さらに、作者の知識や経験、人格というものが考えられる。物語世界を生み出した作者の全人格が「物語の奥にある世界」なのかもしれない。

テーマ:本の紹介 - ジャンル:学問・文化・芸術

分け入ったり
 仙台の町をうろうろしている。知らない町の地理に少しずつ詳しくなっていく過程は、知らない学問分野に少しずつ詳しくなっている過程と似ている。心理過程が似ているし、心理過程に伴うある種の「感じ」が似ている。

 知らない町に出て行くのには多少の勇気が要る。「勇気」とまではいかなくとも、強めの決意が必要だ。同じように、新しい学問分野を学び始めるには多少の勇気が要る。ためらいを押し切るだけの勇気だ。

 見知らぬ建物ばかりの町を行く。同じように、見知らぬ概念ばかりの本を読む。情報過多の感覚と、知り始めるときの食欲。

 道がどう走っているかを覚える。道に沿って立つ建物を覚える。そうやって少しずつ地図の精度を上げていく。同じように、分野全体を概観し、大雑把な概念や関係をおさえ、その後少しずつ細部の知識を埋めていく。
学生
 今日から再び学生になる。院生だが。

詩と向き合う
「未詳24」内のコンテンツ。ここに、詩論やら批評やら文学論やらを分かりやすく連載していきます。お気軽にお読みください。
 今回載せた記事にはいろいろ弱点があって、いくつかの批判を予想しているのですが、それなりの正しさはあると思います。