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| テスト勉強(今度は消しません) |
テスト勉強が苦しい。だがなぜ苦しいのか。
まず、やるべき勉強量の多さに比して、勉強の進み方がゆっくりなので、焦りと無力感のようなものがある。
次に、いつもよりも強い緊張状態にあり、ストレスが強いこと。
さらに、実際にたくさん勉強し、そのわりに十分な休みを取らないので、疲労がたまること。
ほかにもありそう。
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| 歩いてはいけない |
歩道を歩いていたら、急に辺りを見回そうという気になった。マンションや道路や街路樹などがとても複雑に配置され、とても複雑なあり方をしていることに気付く。私はその情報量の多さにめまいのようなものを感じると同時に、認識の欲求、また認識を深める予感の楽しみを感じた。潅木の葉の配置の複雑さ、自分と建物の距離・角度の絶妙さ、建物や街路樹の過剰な高さ。
私は立ち止まらざるを得なかった。歩いてはいけない! 歩いてしまったら、風景はまた新しい相貌を見せ、新しい複雑さとさらなる情報を湛え、現在の情報ですでに飽和している私の認識はさらなる大量の情報を受け止めきれず機能不全に陥ってしまうだろう。歩いてはいけない!
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| 人を信じる |
「人を信じる」ということは、「信じる」というよりはむしろ「期待する」ということなのではないだろうか。
例えば「これは誰にも言わないでくださいね、信じてますよ」と言う場合、相手がその内容を誰にも言わないことを期待しているのである。
一般的に言えば、「人を信じる」ということは、その人の現在の状態を信じるのではなく、その人が未来において背信的行為をしないということを信じているのである。未来における特定の内容を信じるということは、「期待する」という言葉で表現したほうがふさわしい。だから、「人を信じる」ということは、「その人が未来において背信的行為をしないことを期待する」ということなのである。
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| 作品を冒涜することの難しさ |
作品を冒涜するといっても、「つまらん」「芸術性のかけらもない」などという罵倒のことを考えているのではない。悪いがそのような冒涜に興味はない。
私が考えているのは、主に、作品の「唯一絶対性」であるとか「不可変更性」といったものを犯すことである。要するに、作品のかけがえのなさを犯すのである。
作品のかけがえのなさとは、一面においては作者の自己愛が姿を変えたものである。自己を愛するがゆえに自己の生み出した作品を愛し、作品を愛することで作品にかけがえのない価値を付加してしまう。(もちろんそれだけではない。単純に、かけがえのなさは、多くの芸術作品が製作の過程が複雑で同じものが二度と作れないことに起因すると考えても良い)
今回私がkader0dに載せようと思っているうちの二作は、作品のかけがえのなさを犯そうという意図のもとで書いたものである。(こういうことはあまり言わないほうが良いと思うし、むしろ言ってはいけないような気もするのだが、面白い問題点だと思うので、問題を考える前提として言ってしまおうと思う)
ひとつは、ひとつのできあがった詩作品の行を適当に入れ替えたもの。もうひとつは、文章の構造は同じなのだけれど細部が異なる二つの散文を並べたもの。作品なんてこんな風に簡単に変更できてしまうし、変更前の作品と変更後の作品で特にどちらが優れているというわけでもないのだ、という考え方。だから作品なんて唯一絶対的でもなければ、変更不能なわけでもない。
このような冒涜はあまり楽しくない。自己愛が傷つくからだ。だが、楽しくなくてもこの手の冒涜には価値があるように思える。問題提起をする生産的な冒涜だからだ。
だが、この冒涜は結局失敗に終わった。というのも、行を入れ替えたり同じ構造で微妙に変更させたりしたにもかかわらず、そこには新たに一個のかけがえのない作品が出来上がってしまったからだ。私がさらに変更を加えようと、そこにはさらに新たなかけがえのない作品が出来上がるに過ぎない。作品の変更も一種の創作であるから、そこには自己愛や複雑さによる唯一性が伴ってしまうのだ。
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| 映像のレトリック |
You Tube動画を見ていたら、ついつい分析的に見てしまって、癒されるどころか逆に疲れてしまった。といってもしょせん素人の分析だが。
あるラップ音楽(?)の作品のPVだったのだが、なかなか面白かった。
動画といえば動いている対象を映すのが普通だが、あえて静止した対象を数秒間映す。数秒間経ったら、同じ対象を今度は違った距離または角度から数秒間映す。
歌っている人の視線は普通カメラに向かっているのが多いわけだが、あえて歌っている人の視線から外れた方角から映す。歌っている人に徐々に近づいていき、あるいは歌っている人に対して徐々に角度を変えていく。
(1)どんな対象を映すか (2)対象とどんな距離をとるか (3)対象とどんな角度をとるか (4)どれだけの時間その対象を映すか (5)カメラをどのように移動させるか (6)次にどんな対象を映すか
(1)はともかくとして、(2)から(6)は、いわば映像のレトリックなのではないか。
映像には情緒的反応が伴う。認識にはたいてい感情が伴う。映されている人がカメラを見ているか別の方角を見ているかによっても、映像を見る人の情緒的印象は微妙に異なってくる。
だが、映像は所詮映像を介して情緒を惹起しているに過ぎない。何物をも介することなく直接情緒を惹起することは可能か。それはそもそも情緒を惹起したとは言えないのではないか。むしろ情緒が自発的に生起したというべきであろう。だが、情緒が自発的に生起するなどということはありうるのだろうか。情緒はあくまで認識に対する反応ではないのか。だが認識を経由しない情緒の惹起はあってもよいと思う。
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| 分からないことの豊かさ |
詩を読んだり絵画を見たり音楽を聴いたりして、感想なり批評なりを書こうとするとき、さて何を書いてよいのか分からないという状態が先行する場合が多い。
だが、このとき私は、詩なら詩という豊かな対象に対峙して、その豊かさを感じ取り、批評の手がかりの探索の楽しみを感じている。単に対象が豊かなだけではない。その豊かさを把持しながら探索をする私の心も、豊かさを把持しているという点において、また手がかりを求めてそこを探索するという点において、豊かなのである。
抽象画や意味不明な詩に対峙したときも、分からないことの豊かさが伴う。敢えて言ってしまうと、分かってしまうということは、対象と自分の心を貧しくしてしまう。分かるということは、対象の微細な部分をそぎ落とし、批評の手がかりを求める探索を終わらせてしまうことだ。
敢えて分からないでいること。これは案外重要なのかもしれない。対象はとらえどころがなく豊かなままで、それに対する人間の心も探索の楽しみを感じ続けているからだ。
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| 音楽は侵す |
フランクの交響曲ニ短調を聴いていて感じたのだが、音楽はどうやら聴き手の心や体(あるいは心と体が未分化のまま融合しているもの)を侵すようである。
特に弦楽器は私を削り取っていくような感じであるし、管楽器は私に穴を開けていくかのような感じである。音楽とは畢竟攻撃であって、音楽を聴くことの快楽は被虐の快楽なのかもしれない。
音楽が鳴り止んで沈黙が訪れたとき、果たして私はへこまされたゴムボールが元に戻るように、侵害された心身を弾力的に元に戻すことができているのだろうか。音楽によって奪い取られたものはなかったか。
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